夢二の絵は、画集「旅の巻」カバー。
小説は、目黒不動、桐ヶ谷の火葬場、碑文谷、蛇窪村、葡萄鼠色、五位鷺。

夢二36

その十六
社宅を辞して戸外そとに出ると夜はけて月の光は真昼のようである。私は長峰の下宿に帰らず、そのまま夢のような大地を踏んで石壇道の雨に洗われて険しい行人坂を下りた。
故郷の母のこと、下谷の伯母のこと、それから三崎町の「苦学社」でめた苦痛くるしみ恐怖おそれとを想い浮べて連想は果てしもなく、功名の夢の破滅やぶれに驚きながらいつしか私は高谷千代子に対する愚かなる恋を思うた。私がこれまで私の恋を思うたびに、冷たい私の知恵は私の耳にささやいて、恋ではない、恋ではないとわれとわが心を欺いてわずかに良心の呵責かしゃくを免れていたが、今宵この月の光を浴びて来し方の詐欺いつわりに思い至ると、自分ながら自分の心のあさましさに驚かれる。
私は今改めて自白する、私の千代子に対する恋は、ほとんど一年にわたる私の苦悩なやみであった、煩悶わずらいであった。
そして私はいままた改めてこの月に誓う、私は千代子に対する恋を捨てて新しい希望のぞみに向って、男らしく進まなければならない。ちょうど千代子が私に対するような冷たさを、数限りなき私たちの同輩なかまはこの社会よのなかから受けているではないか。私はもう決して高谷千代子のことなんか思わない。
決心につれて涙がこぼれる。立ち尽すと私は初めて荒漠こうばくなあたりの光景に驚かされた、かすかな深夜の風が玉蜀黍とうもろこしの枯葉にそよいで、轡虫くつわむしの声が絶え絶えに、行く秋のあわれをこめて聞えて来る。先刻さっき、目黒の不動の門前を通ったことだけは夢のように覚えているが、今気がついて見ると私はきりから碑文谷ひもんやに通う広い畑の中に佇んでいる。夜はもう二時を過ぎたろう、寂寞ひっそりとしてまるで絶滅の時を見るようである。
人の髪の毛の焦げるような一種異様な臭気がどこからともなく身に迫って鼻をったと思うと、ぞっとするように物寂しい夜気が骨にまでも沁み渡る。
何だろう、何の臭気においだろう。
おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森のこずえには巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦あかれんがの煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠ぶどうねずみの色をした空を蛇窪村へびくぼむらの方に横切っている。
私は多摩川の丸子街道に出て、大崎に帰ろうとすると火葬場の門のあたりで四五人の群に行き合うた。私はこの人たちが火葬場へ仏の骨を拾いに来たのだとい うことを知った。両傍に尾花の穂の白く枯れた田舎道を何か寂しそうにヒソヒソと語らいながら平塚村の方に行く後影を私は見送りながら佇んだ。
「おいにいや、どうしてこんなとこへ来たんだいおかしいな、きつねつままれたんじゃあないの?」
私は少年こどもの声にぞっとして振り向きさま、月あかりにすかして見ると驚いた。この間雨の日に停車場で五銭の白銅をくれてやった、あの少年ではないか。
「君か、君こそどうしてこんなところに来ているのかい」と私はニタニタ笑っている少年の顔を薄気味悪くのぞきながら問い返した。
「おらア当り前よ、ここのお客様に貰いに来ているのじゃあないか、兄やこそおかしいや!」と少年はしきりに笑っている。
ああ、少年は火葬場に骨拾いに来る人を待ち受けて施与ほどこしを貰うために、この物淋しい月の夜をこんなところに彷徨うろついているのだ。
五位鷺ごいさぎが鳴いて夜は暁に近づいた。
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☆ 蛇窪村は、現在の戸越公園あたり

白柳秀湖「駅夫日記」その16
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