夢二の絵は、「椿姫」の楽譜の表紙。
小説の方は、バイオリンを持った女性が登場。

夢二24

その四
品川行きのシグナルを処理して私は小走りに階壇を下りた。黄昏たそがれの暗さに大槻の浴衣ゆかたを着た後姿は小憎らしいほどあざやかに、細身のつえでプラットホームの木壇もくだんたたいている。
私は何だか大槻に馬鹿にされたような気がして、言いようのない不快の感が胸をいて堪えがたいのでかけいの水を柄杓ひしゃくから一口グイと飲み干した。
筧の水というものはこの崖から絞れて落つる玉のような清水を集めて、小さい素焼きのかめに受けたので綰物まげものの柄杓が浮べてある。あたりはすすきが生いて、月見草が自然に咲いている。これは今の駅長の足立熊太という人の趣向で、こんなことの端にも人の心がけはよく表われるもの、この駅長はよほど上品な風流心に富んだ、こういう職業にうもれて行くにはあたら惜しいような男である。長く務めているので、長峰界隈かいわいでは評判の人望家ということ、道楽は謡曲で、暇さえあれば社宅の黒板塀くろいたべいからうたいの声が漏れている。
やがて汽車が着いた。私は駅名喚呼をしなければならぬ、「目黒目黒」と二声ばかりドアーを開けながら呼んで見たが、どうも羞かしいような気がして咽喉がつまった。列車は前後あとさきが三等室で、中央まんなかが一二等室、見ると後の三等室から、髪をマガレットにつかねた夕闇に雪をあざむくような乙女の半身が現われた。今玉のようなかいなをさし伸べて戸のラッチをはずそうとしている。
高谷たかや千代子!」私は思わず心に叫んだが胸は何となく安からぬ波に騒いだ。
大槻はツカツカと前へ進んだと思うと高谷の室の戸をグッと開けてやる。縫上げのたっぷりとした中形の浴衣ゆかたに帯を小さく結んで、幅広のリボンを二段に束ねた千代子の小柄な姿がプラットホームに現われたが、ちょっと大槻に会釈えしゃくしてそのまま階段の方に歩む。手には元禄模様の華美はでな袋にバイオリンを入れて、水色絹に琥珀こはくの柄の付いた小形の洋傘こうもりげている。
大槻はすぐ室に入ったが、今度はまた車窓から半身を出して、自分で戸の鍵をかった。千代子はほかの客に押されて私の立っている横手をそでの触れるほどにして行く、私はいたく身をじてちょっと体躯からだを横にしたがその途端に千代子は星のようなひとみをちょっと私の方にうつした。
汽車はこの時もう動いていた、大槻の乗っている三等室がプラットホームを歩いている千代子の前を横ぎる時、千代子はその美しい顔をそむけて横を見た。
「マア大槻というやつは何といういけ好かない男だろう」私はこう思いながら、ぼんやりとしてたたずむと、千代子の大理石のように白い素顔、露のこぼれるような瞳、口もとに言いようのない一種の愛嬌あいきょうをたたえて大槻に会釈した時のあでやかさ、その心象まぼろしがありありと眼に映って私は恐ろしい底ひしられぬ嫉妬ねたみの谷に陥った。
「藤岡! 閉塞を忘れちゃあ困るよ、何をぼんやりとしているかね」
駅長のおだやかな声が聞えた。私があわてて振り向くと駅長はニッコリ笑っていた、私はもしやこの人に私のあさましい心の底を見抜かれたのではあるまいかと思うと、もうたまらなくなってコソコソと階壇を駆け上って、シグナルを上げた。
権之助坂ごんのすけざかのあたり、夕暮の煙が低くこめて、もしやと思ったその人の姿は影も見えない。

白柳秀湖「駅夫日記」その4
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白柳秀湖「駅夫日記」その4」への2件のフィードバック

  • 2008年4月14日 11:40 AM
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    「夕闇に雪を欺(あざむ)くような乙女」の登場につれて、いよいよ佳境に入ってきたような、、、(笑)
    ところで「筧」という言葉を久々に目にしたように思います。中学生のときに覚えた『徒然草』に「木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならではつゆおとなふものなし」とあったのを思い出しました。

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  • 2008年4月14日 4:31 PM
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    つれづれなるまゝに・・・は、入試用に一応通して読みました。
    パソコンで読み返してみると、面白い!面白い!癖になりそう。

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