夢二の絵は、「椿姫」の楽譜の表紙。
小説の方は、バイオリンを持った女性が登場。
その四
品川行きのシグナルを処理して私は小走りに階壇を下りた。黄昏の暗さに大槻の浴衣を着た後姿は小憎らしいほどあざやかに、細身の杖でプラットホームの木壇を叩いている。
私は何だか大槻に馬鹿にされたような気がして、言いようのない不快の感が胸を衝いて堪えがたいので筧の水を柄杓から一口グイと飲み干した。
筧の水というものはこの崖から絞れて落つる玉のような清水を集めて、小さい素焼きの瓶に受けたので綰物の柄杓が浮べてある。あたりは芒が生いて、月見草が自然に咲いている。これは今の駅長の足立熊太という人の趣向で、こんなことの端にも人の心がけはよく表われるもの、この駅長はよほど上品な風流心に富んだ、こういう職業に埋れて行くにはあたら惜しいような男である。長く務めているので、長峰界隈では評判の人望家ということ、道楽は謡曲で、暇さえあれば社宅の黒板塀から謡いの声が漏れている。
やがて汽車が着いた。私は駅名喚呼をしなければならぬ、「目黒目黒」と二声ばかり戸を開けながら呼んで見たが、どうも羞かしいような気がして咽喉がつまった。列車は前後が三等室で、中央が一二等室、見ると後の三等室から、髪をマガレットに束ねた夕闇に雪を欺くような乙女の半身が現われた。今玉のような腕をさし伸べて戸の鍵をはずそうとしている。
「高谷千代子!」私は思わず心に叫んだが胸は何となく安からぬ波に騒いだ。
大槻はツカツカと前へ進んだと思うと高谷の室の戸をグッと開けてやる。縫上げのたっぷりとした中形の浴衣に帯を小さく結んで、幅広のリボンを二段に束ねた千代子の小柄な姿がプラットホームに現われたが、ちょっと大槻に会釈してそのまま階段の方に歩む。手には元禄模様の華美な袋にバイオリンを入れて、水色絹に琥珀の柄の付いた小形の洋傘を提げている。
大槻はすぐ室に入ったが、今度はまた車窓から半身を出して、自分で戸の鍵をかった。千代子はほかの客に押されて私の立っている横手を袖の触れるほどにして行く、私はいたく身を羞じてちょっと体躯を横にしたがその途端に千代子は星のような瞳をちょっと私の方にうつした。
汽車はこの時もう動いていた、大槻の乗っている三等室がプラットホームを歩いている千代子の前を横ぎる時、千代子はその美しい顔をそむけて横を見た。
「マア大槻という奴は何といういけ好かない男だろう」私はこう思いながら、ぼんやりとして佇むと、千代子の大理石のように白い素顔、露のこぼれるような瞳、口もとに言いようのない一種の愛嬌をたたえて大槻に会釈した時のあでやかさ、その心象がありありと眼に映って私は恐ろしい底ひしられぬ嫉妬の谷に陥った。
「藤岡! 閉塞を忘れちゃあ困るよ、何をぼんやりとしているかね」
駅長のおだやかな声が聞えた。私があわてて振り向くと駅長はニッコリ笑っていた、私はもしやこの人に私のあさましい心の底を見抜かれたのではあるまいかと思うと、もうたまらなくなってコソコソと階壇を駆け上って、シグナルを上げた。
権之助坂のあたり、夕暮の煙が低くこめて、もしやと思ったその人の姿は影も見えない。
SECRET: 0
PASS: 65215c0bb9ae483e06b34cbd56eff5f6
「夕闇に雪を欺(あざむ)くような乙女」の登場につれて、いよいよ佳境に入ってきたような、、、(笑)
ところで「筧」という言葉を久々に目にしたように思います。中学生のときに覚えた『徒然草』に「木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならではつゆおとなふものなし」とあったのを思い出しました。
SECRET: 0
PASS: 74be16979710d4c4e7c6647856088456
つれづれなるまゝに・・・は、入試用に一応通して読みました。
パソコンで読み返してみると、面白い!面白い!癖になりそう。