夢二の絵は、「婦人グラフ」表紙。
小説は、エビスビール、百舌鳥(もず)、櫨(はぜ)。

夢二30

その十
雨がやむと快晴が来た。
シットリと濡れた尾花が、花やかな朝日に照りそうて、冷めたい秋風が一種言いしれぬ季節の香を送って来る。崖の上のはぜはもう充分に色づいて、どこからとなく聞えて来る百舌鳥もずの声が、何となく天気の続くのを告げるようである。
今日は日曜で、乗客が非常に多い。午後一時三十五分品川行きの列車が汽笛を鳴らして運転をはじめたころ、エビスビールあたりの帰りであろう、面長の色の浅黒い会社員らしい立派な紳士が、眼のあたりにポッと微薫を帯びて、洋杖ステッキを持った手に二等の青切符を掴んで階壇を飛び降りて来た。
危険あぶない! もうお止しなさい !!! 駄目だめです駄目だめです!」と私は一生懸命に制止した。
紳士は微酔ほろよ機嫌きげんでよほど興奮しているものと見えて、私のいうことをさらに耳に入れない。行きなり疾走をはじめた二等室を追いかけて飛び乗りをしようとする。私はこの瞬間たしかに紳士の運命を死と認めた。
よし救え! 私は立ちどころに大胆な決心をした。
まさに紳士が走り出した汽車の窓に手をかけようとした刹那せつな、私は紳士のインバネスの上から背後うしろざまに組みついた。
「な、な、何をするか! 失敬な !!!   こやつ……」
「お止しなさい、危険あぶないです !!!」
駅長も駆けつけた。
けれどもこの時紳士は男の力をこめて私を振り放したが、かっとして向き返ると私の胸を突き飛ばした。私は突かれるとそのまま仰向けに倒れたので、アッという間もなく、柱の角に後頭部をしたたか打ちつけた。
*    *    *
仮繃帯かりほうたいの下から生々しい血汐ちしおにじみ出して私はいうべからざる苦痛を覚えたが、駅長の出してくれたかけいの水をグッと飲み干すとやや元気づいて来た。
汽車はもう遠く去ったけれども、隧道トンネルの口にはまだ黒い煙が残っている。見ると紳士の顔にもしたたか泥が付いて、恐ろしい争闘いさかいでもした跡のよう、顔は青褪あおざめて、唇には血の気の色もない、俯向いてきまりが悪そうにしおれている。口髯くちひげのやや赤味を帯びたのが特長で、鼻の高い、口もとに締りのある、ちょっと苦味走った男である。
紳士の前に痩身やせぎすの骨の引き締った三十前後の男が茶縞ちゃじまの背広に脚袢きゃはんという身軽な装束いでたちで突き立ったまま眼を光らしている。鳥打帽子の様子といい、草鞋わらじをはいたところといいどこから見ても工夫のかしらとしか見えない。
「どうだ上まで歩かれるか、大丈夫だろう洗って見たら大した傷でもあるまい」と駅長が優しくいうので、私も気を取り直して柱を杖に立ち上った。
傷は浅いと見えてもうあまり眩暈めまいもしない。「もう大丈夫です」と答えると、駅長はちょっと紳士の方を向いて、
「どうかちょっとお話し致したいことがございますから」というと紳士は黙ってうなずいた。
「じゃあ君もね」と工夫頭の方を向いて駅長が促した。その親しげなものの言い振りで私ははじめて、二人が知己しりあいであるということを知った。
駅長は親切に私をいたわって階壇をのぼるとその後から紳士と工夫頭とがついて来た。壇を昇りきると岡田が駆けて来て、
「大槻さんが今すぐに参りますそうで」と駅長の前に呼気いきを切りながら復命した。

白柳秀湖「駅夫日記」その10
Pocket
LINEで送る

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください