夢二の絵は、雑誌「若草」。
その十五
その夜駅長は茶を啜りながら、この間プラットホームで蘆工学士を突き倒した小林浩平の身の上話をしてくれた、私がただ学問とか栄誉とかいうはかないうつし世の虚栄を慕うて、現実の身を愧じ、世をかねる若い心をあわれと思ったからであろう。その話の大概はこうであった。
小林というのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であった先代に男の子がなくて娘ばかり三人、総領のお幾というのが弥吉という婿を迎えて、あとの娘二人はそれぞれよそに嫁づいてしもうた。この弥吉とお幾との間に出来たのがかの小林浩平で、駅長とは竹馬の友であった。
ところがお幾は浩平を産むととかく病身で、彼がやっと六歳の時に病死してしもうた。弥吉もまだ年齢は若いし、独身で暮すわけにも行かないので、小林の血統から後妻を迎えておだやかに暮して行くうちに後妻にも男の子が二人も生まれた。
弥吉は性来義理固い男で、浩平は小林家の一粒種だというので、かりそめの病気にも非常に気を揉んで、後妻に出来た子どもとは比較にならないほど大切にする。妻も無教育な女にしては珍らしい心がけの女で夫の処致を夢さら悪く思うようなことなく、実子はさて措いて浩平に尽すという風で、世間の評判もよく弥吉も妻の仕打ちを非常に満足に想うていた。
ところが浩平が成長して見ると誰の気質を受けたものか、よほどの変物であった。頭が割合に大きいのに顎がこけて愛嬌の少しもない、いわば小児らしいところの少い、陰気な質であった。学友はいつしか彼を「らっきょ」と呼びなして囃し立てたけれども、この陰欝な少年の眼には一種不敵の光が浮んでいた。
中学へ行ってからのことは駅長は少しも知らなかったそうだ。しかし一しょに行ったものの話では小学時代と打って変って恐ろしい乱暴者になったそうだ。卒業する時には誰でも小林は軍人志願だろうと想像していたが、彼は上京して東京専門学校で文学を修めた、この間駅長は鉄道学校にいて彼に関する消息は少しも知らなかったが、四年ばかり以前に日鉄労働者の大同盟罷工が行われた時、正気倶楽部の代表者として現われたのは、工夫あがりの小林浩平であった。
驚いて様子を聞いて見ると、彼は学校を出るとそのまま、父親に手紙をやって「小作人の汗と株券の利子とで生活するのは人間の最大罪悪だ、家産は弟にや る、自分はどうか自由に放任しておいてくれ」という意味を書き送った。父親は非常に驚いて何か不平でもあるのか、家産を弟に譲っては小林家の先祖に対して 申しわけがない、ことに世間で親の仕打ちが悪いから何か不平があって、面当てにすることと思われては困るというので、泣くようにして頼んで見たけれど浩平 は頑として聞かなかった、百方手を尽して見たけれどもそれは全く無駄であった。
村では浩平が気が触れたのだという評判をする者さえあったそうだ。
幾万の家産を抛ち、 義理ある父母を棄てた浩平はそのまま工夫の群に姿を隠したがいつの間にかその前半生の歴史をくらましてしもうた。彼が野獣のような工夫の団結を見事に造り 上げて、その陣頭に現われた時には社会に誰一人として彼の学歴を知っているものはなかったのである。駅長はそのころ中仙道大宮駅に奉職ていて、十幾年かぶりで小林に会見したのであったそうだ。
「君なんぞまだ若気の一途に、学問とか、名誉とかいうことばかりを思うのも無理はないけれど、何もそんな思いをして学問をしなくっても人間の尽す道はわれわれの生活の上にも充分あるではないか。
見給え、学問をしてわざわざ工夫になった人さえあるではないか、君! 大いに自重しなくちゃいけないよ、若い者には元気が第一だ」
「はい……」と小さい声で応えたが、私は何とも知れぬ悲しさと嬉しさとが胸一ぱいになって、熱い涙がハラハラ頬を流れる。努めて一口応答をしようと思うけれど、張りさけるような心臓の激動と、とめどなく流れる涙とに私はただ啜り上げるばかりであった。
「小林はあれで立派な学者だ、この間の話では複線工事の監督にここへ来るということだから、君も気をつけて近附きになっておいたら何かと都合がよかろう」
私の胸には暁の光を見るように、新しい勇気と、新しい希望とが湧いた。