夢二は、「婦人グラフ」表紙。
小説は、唐人髷、銘仙の着物、浅黄色の帯、欝金色の薔薇釵(ばらかざし)の高谷千代子。
粋な鳥打帽子、紬の飛白(かすり)、唐縮緬の兵児帯(へこおび)の大槻芳雄。

夢二33

その十三
栗の林に秋の日のかすかな大槻医師の玄関に私はひとり物思いながら柱にって、薬の出来るのを待っている。
「もういいのよ……」どこかで聞き覚えのある、優しい処女おとめの声が、患者控室に当てた玄関をへだてて薬局に相対むきあった部屋の中から漏れて来たが、廊下を歩く気配がして、しばらくすると、中庭の木戸が開いた。
高谷千代子の美しい姿がそこへ現われた。いつにない髪を唐人髷とうじんまげに結うて、銘仙の着物に、浅黄色の繻子しゅすの帯の野暮やぼなのもこの人なればこそよく似合う。小柄な体躯からだをたおやかに、ちょっと欝金色うこんいろ薔薇釵ばらかざしを気にしながら振り向いて見る。そこへ大槻がいきな鳥打帽子に、つむぎ飛白かすり唐縮緬とうちりめん兵児帯へこおび背後うしろで結んで、細身のステッキ小脇こわきはさんだまま小走りに出て来たが、木戸の掛金をすと二人肩を並べて、手を取るばかりに、門の方に出て行くのである。
千代子は小さい薬瓶を手巾ハンケチに包んでそれに大槻の描いた水彩画であろう半紙を巻いたものをげている。私はハッとしたが隠れるように項垂うなだれて、繃帯のした額に片手を当てたが、さすがにまた門の方を見返した。
私が見返した時に、二人はちょうど今門を出るところであったが、一斉いっせいに玄関の方を振り向いたので、私とパッタリ視線が会うた。私は限りなき羞かしさに、俯向いたまま薬局の壁に身を寄せた。
きのうまで相知らなかった二人がどうして、あんな近附きになったのであろう、千代子が大槻を訪ねたのか、イヤイヤそんなことはあるまい、私は信じなかったが世間の噂では大槻は非常に多情な男で、これまでにもう幾たびも処女をもてあそんだことがあるという、そう言えばこの間も停車場ステーションでわざわざ千代子のドアーを開けてやったところなど恥かしげもなく、あつかましいのを見れば大槻が千代子を誘惑したに相違ない。それにしても何と言うて言い寄ったろうか。
千代子が大槻のところへどこか診察してもらいに行って、この玄関に待ち合わしているところへ大槻が奥から出て来て物を言いかけたに違いない、「マアこっ ちへ来て画でも見ていらっしゃい」などと言う、大槻はいい男だし、それにあの才気で口を切られた日には、千代子でなくとも迷わない者はあるまい。
佳人と才子の恋というのはこれであろう、大槻が千代子を恋うるのが無理か、千代子が大槻を慕うのが無理か、たとえば絵そらごとに見るような二人の姿を引 きくらべて見て私はさらに、「私が千代子を恋するのは無理ではないだろうか」と、われとわが心に尋ねて見たが、今まで私の思うたことのいつか恐ろしい嫉妬ねたみ邪道よこみちに踏み込んでいたのに気がつくと、私はもう堪えかねて繃帯の上から眼をおおうて薬局の窓に俯伏した。
「藤岡さん、薬が出来ましたよ」と書生は薬を火燈口から差し出してくれたが、私の姿をあやぶんで、
「また痛みますか、どうしたんです?」と窮屈そうにのぞきながら尋ねる。
「いいえ、どうも致しません」と私は簡単にこたえて大槻の家の門を出たが、水道の掘割に沿うて、紫苑しおんの花の咲きみだれた三田村の道を停車場の方にたどるのである。
私はなぜに千代子のことをおもうてこんなに苦しむのだろう、私はゆめあのひとを恋してはいない、私がいつまでもいつまでもあの女のことを思うたにしてもそれは思うばかりで、それでつまりがどうしようというのでもない、恋してもいない人のことをなぜこんなに気にするのだろう。
それともこれが恋というものであろうか。
私の耳には真昼の水の音がさながらゆめのように聞えて、細いすぎの木立から漏れて来る日の光が、さながら月夜の影のように思いなされた。

白柳秀湖「駅夫日記」その13
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