夢二の絵は、歌劇「カルメン」ハバネラの歌表紙。
その十八
寂しい冬の日は暮れて、やわらかな春の光がまた武蔵野にめぐって来た。
ちょうど三月の末、麦酒会社の岡につづいた桜の莟が綻びそめたころ、私は白金の塾で大槻医師が転居するという噂を耳にした。塾というのは片山という基督教 信者が開いているのでもとは学校の教師をしていたのが、文部省の忌憚に触れて、それからはもう職を求めようともせず、白金今里町の森の中に小さい塾を開い て近処の貧乏人の子供を集めては気焔を吐いている。駅長とは年ごろ懇意にしているので私は駅長の世話で去年の秋の暮あたりから休暇の日の午後をこの片山の 塾に通うこととした。
片山泉吉というて年齢は五十ばかり、思想は古いけれども、明治十八年ごろに洗礼を受けて、国粋保存主義とは随分はげしい衝突をして来たので、貧乏の中に老いたけれども、気骨はなかなか青年を凌ぐ勢いである。
私はこの老夫子の感化で多少読書力も出来る。労働を卑しみ、無学を羞じて、世をはかなみ、身をかねるというような女々しい態度から小さいながら、弱いながらも胸の焔を吐いて、冷たい社会を燬きつくしてやろうというような男々しい考えも湧いて来た。
大槻が転居するという噂は、私にとって全然、他事のようには思われなかった、私はそれとなく駅長の細君に、聞いて見たが噂は全く事実であった。肌寒い春の夕がた私は停車場の柱によって千代子の悲愁を想いやった。思いなしかこのごろその女の顔がどうやら憔れたようにも見える。
大槻の家族が巣鴨に転居してから、一週間ばかり、金曜の午後私が改札口にいると大槻芳雄が来て小形の名刺を私に渡して小声で囁いた。
「高谷さんにこれを渡してくれないか」率直に言えば私は大槻が嫌いだ、大槻が嫌いなのは私の嫉妬ではないと思う。けれども私が今これを拒むのは何となく嫉妬のように見えてそれは卑怯だという声が心の底で私を責める、私は黙って諾いた。
「ありがとう!」といかにも嬉しそうに言うたが、「君だからこんなことを頼むのよ、いいねきっと渡してくれ給え!」と念を押すようにして、ニッコリ笑うた、何という美しい青年であろう、心憎いというのはこういう姿であろう。
どうしたものかその日千代子の学校の帰りは晩かった。どこでどうして私はこれを千代子に渡そうかと思ったが、胸は何となく安からぬ思いに悩んだ、長い春の日も暮れて火ともしごろ、なまめかしい廂髪に美人草の釵をさした千代子の姿がプラットホームに現われた。私は千代子の背後について階壇を昇ったが、ほかに客はほとんどない。
「高谷さん!」私はあたりをはばかりながら呼びかけた。思いなしか千代子は小走りに急ぐ、「高谷さん!」と呼ぶと、こんどは中壇に立ち止って私の方を向いたが、怪訝な顔をして口もとを手巾でおおいながら、鮮やかな眉根をちょいと顰めている。
「何ですか大槻さんがこれをあなたに上げて下さいって……」と私は名刺を差し出した。
「ああそう」と虫の呼気のように応えたが、サモきまりが悪そうに受け取って、淡暗い洋燈の光ですかして見たが、「どうもありがとう」と迷惑そうに会釈する。私はこの千代子の冷胆な態度に、ちょうど、長い夢から醒めた人のようにしばらくはぼんやりとして立ち尽した。
辛い人の世の生存に敗れたものは、鳩のような処女の、繊弱い足の下にさえも蹂み躙られなければならないのか。
翌日、千代子は化粧を 凝らして停車場に来た。その夕、大槻は千代子を送ってプラットホームに降りたが、上野行きの終列車で帰った。土曜、日曜の夕、その後私は幾たびも大槻が千 代子を送って目黒に来るのを見た。二人がひそひそと語らいながら、私の顔を見ては何事か笑い興ずるような時など、私は胸を刳って嬲り殺しにされるような思いがした。
佳人と才子との恋はその後幾ほどもなく消え失せて大槻の姿は再び目黒の階壇に見られなくなった。例えば曠野に吐き出した列車の煤煙のように、さしも烈しかった世間の噂もいつとはなしに消えて、高谷千代子の姿はいま暮春の花と見るばかり独り、南郊の岡に咲きほこっている。