夢二の絵は、ホームソング 表紙。
小説は、山の手線複線工事、恵比須麦酒。
その十九
その春のくれ、夏の初めから山の手線の複線工事が開始せられた。目黒停車場の掘割は全線を通じて最も大規模の難工事であった。小林浩平は数多の土方や工夫を監督するために出張して、長峰に借家をする。一切の炊事は若い工夫が交代に勤めている。私は初めて小林の勢力を眼のあたり見た、私は眼に多少の文字ある駅夫などがかえって見苦しい虚栄に執着して妄想の奴隷となり、同輩互いに排斥し合うているのに、野獣のような土方や、荒くれな工夫が、この首領の下に階級の感情があくまでも強められ、団結の精神のいかにもよく固められたのを見て、私はいささか羞かしく思うた。あらぬ思いに胸を焦がして、罪もない人を嫉んだり、また悪しんだりしたことのあさましさを私はつくづく情なく思うた。
工事は真夏に入った。何しろ客車を運転しながら、溝のように狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩して行くので、仕事は容易に捗らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒の方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、だんだんと工事を進めて来る。
初めのうちは小さいトロッコで崖を崩して土を運搬していたのが、工事の進行につれて一台の汽鑵車を用うることになった。たとえば熔炉の中で人を蒸し殺すばかりの暑さの日を、悪魔の群れたような土方の一団が、てんでに十字鍬や、ショーブルを持ちながら、苦しい汗を絞って、激烈な労働に服しているところを見ると、私は何となく悲壮な感にうたれる。恵比須停車場の新設地まで泥土を運搬して行った土工列車が、本線に沿うてわずかに敷設された仮設軌道の上を徐行して来る。見ると渋を塗ったような頑丈な肌を、烈しい八月の日にさらして、赤裸体のもの、襯衣一枚のもの、赤い褌をしめたもの、鉢巻をしたもの、二三十人がてんでに得物を提げてどこということなしに乗り込んでいる。汽鑵の正面へ大の字にまたがっているのがあるかと思えば、踏台へ片足かけて、体躯を斜めに宙に浮かせているのもある。何かしきりに罵り騒ぎながら、野獣のような眼をひからせている形相は所詮人間とは思われない。
よほどのガラクタ汽鑵と見えて、空箱の運搬にも、馬力を苦しそうに喘がせて、泥煙をすさまじく突き揚げている、土工列車がプラットホーム近くで進行を止めた時、渋谷の方から客車が来た。掘割工事のところに入ると徐行して、今土工列車の傍を通る。土方は言い合わせたように客車の中をのぞき込んだが何か眼についたものと見えて、
「ハイカラ! ここまで来い」
「締めてしまうぞ……脂が乗ってやあがら」
「女学生! ハイカラ! 生かしちゃあおかねいぞ」
私は恐ろしい肉の叫喚をまのあたり聴いた。見ると三等室の戸が開いて、高谷千代子が悠々とプラットホームに降りた。華奢な洋傘をパッと拡げて、別に紅い顔をするのでもなく薄い唇の固く結ぼれた口もとに、泣くような笑うような一種冷やかな表情を浮べて階壇を登って行ってしもうた、土方はもう顧る者もない、いつの間にかセッセと働いている。
私はなぜに同じ労働者でありながら、あの土方のようにさっぱりとして働けないのであろう。
土方が額に玉のような汗を流して、腕の力で自然に勝って、あらゆるものを破壊して行く間に、私たちは、シグナルやポイントの番をして、機械に生血を吸い取られて行くのだ。私たちのこの痩せ衰えた亡者のような体躯に比べて、私はあの逞しい土方の体躯が羨ましい、そして一口でもいいからあの美しい千代子の前に立って、あんな暴言が吐いて見たい。
私は片山先生と小林監督との感化で冬の氷に鎖されたような冷たい夢から醒めて、人を羨み身を羞じるというような、気遅れがちの卑しい根性をだんだんに捨てて行くことが出来た。
新しい希望に満たされて、私は新しい秋を迎えた。