夢二の絵は、楽譜「陽気な鍛冶屋」 表紙。

夢二40

その二十
「今日の社会は大かた今僕が話したような状態ありさまで、ちょうどまた新しい昔の大名だいみょうが出来たようなものだ。昔の大名は領土を持っていて、百姓から自分勝手に取立てをして、立派な城廓しろを築いたり、また大勢の臣下けらいを抱えたりしていた。今話した富豪かねもちという奴がやっぱり昔の大名と同じで、領土の代りに資本を持っている大仕掛けの機械を持っている。資本と機械とがあればもうわれわれ労働者の生血を絞り取ることは容易いものだ。昔の祖先じいさんた ちが土下座をして大名の行列を拝んでいるところへ行って、今から後にはお大名だとか将軍様だとかいうものがなくなって、皆同等の人間として取り扱われる時 が来るというて見たところで、それを信ずるものは一人もなかったに違いない。けれども時が来れば大名もなくなる、将軍もなくなる。今僕がここで君に話した ようなことを、同輩なかまに聞かして見たところで仕方がない。
いや、僕にしてからがこれからの社会はどんなであろうとか、いつそんな社会になるであろうというようなことを深く考えるのは大嫌いだ、またそんな暇もないのだが、少くも現在自分たちは朝から晩までこんな苦しい労働をしてもなぜ浮ぶ瀬がないのか、なぜこんな世知辛せちがらい社会になったのか、また自分たちと社会とはどういう関係になっているのかということぐらいは皆が知っていてくれなくちゃあ困る、僕が先刻さっき話したようなことをだね」
小林監督は私を非常に愛してくれる。今日も宵から親切に話し続けて今の社会の成立をほとんど一時間にわたって熱心に説明してくれた。「先年大宮で同盟罷工ストライキがあってから、一時社会では非常にあの問題がやかましかったが、労働者はそう世間で言うように煽動おだてて見たところで容易く動くものじゃあない、世間の学者なんという奴らが、同盟罷工と言えばまるでお祭騒ぎでもしているように花々しいことに思うのが第一気に喰わねい、よしんば煽動おだてたにしろ、また教唆そそのかしたにしろ、君も知っての通りあの無教育な連中が一個月なり二個月なり饑?うえを忍んで団結するという事実の底には、どれほどの苦痛や悲哀があるのか知れたものではない」くぼんだ眼は今にも火を見るかと思われるばかり輝いて、彼の前にはもう何者もない、彼はもう去年プラットホームで私のために工学士を突き飛ばした工夫頭ではなくて、立派な一かどの学者だ、感にうたれうなじを垂れて聴きとれている私の姿が、彼にとっては百千の聴衆とも見えるようである。
「時の力というものは恐ろしいものだ。大宮一件以来もう十五年になる、僕たちが非常な苦痛をめていた種がこのごろようやく芽を出しかけた。北海道にも、足尾にも、別子にも、長崎にも僕たちの思想おもいは煙のように忍び込んで、労働者も非常な勢いで覚醒めざめて来た」
それから彼が、その火のような弁を続けて今にも暴風雨あらしの来そうな世の状態を語った時には、私の若い燃えるような血潮は、脈管にあふれ渡って、何とも知れず涙の頬に流れるのを覚えなかったが、私の肩にソッと手を掛けて、
「惜しいもんだ。学問でもさせたらさぞ立派なものになるだろう……けれども行先の遠いからだだ、その強い感情をやがて、世の下層に沈んで野獣のようにすさんで行く同輩のために注いでくれ給え、社会のことはすべて根気だ、僕は一生工夫や土方を相手にして溝の埋草になってしまっても、君たちのような青年わかものがあって、蒔いた種の収穫とりいれをしてくれるかと思えば安心して火の中にでも飛び込むよ」
激しい男性の涙がとめどなく流れて、私は面をあげて見ることが出来なかった。談話はなしは尽きて小林監督は黙って五分心の洋燈ランプを見つめていたが人気の少い寂寥ひっそりとした室の夜気に、油を揚げるかすかな音が秋のあわれをこめて、冷めたい壁には朦朧ぼんやりと墨絵の影が映っている。
「君はもう知っているか、足立が辞職するということを」こんどは調子を変えて静かに落ち着いて言う。
「エ! 駅長さんはもうやめるのですか!」と私は寝耳に水の驚きを覚えた。「いつ止めるのでしょう、どうして……」と私の声がとぎれとぎれになる。
「この間遊びに行くとその話が出た、もっとも以前からその心はあったんだけれど、細君が引き止めていたのさ」
「駅長さんが止めてしまっちゃあ……」と私は思わず口に出したが、この人の手前何となく気がとがめて口をつぐんだ。
「その話もあった。駅長がいろいろ君の身の上話もして、助役との関係も蔭ながら聞いた。もし君さえよければ足立の去ったあとは僕が及ばずながら世話をして上げよう」
その夜私はどこまでも小林に一身を任せたいこと、幸いに一人前の人間ともなった暁には、及ばずながら身を粉に砕いてもその事業のために尽したいということなどを、廻らぬ重い口で固くちかって宿を辞した。
長峰の下宿に帰ってからあかりを消して床に入ったが虫の声が耳について眠られない、私は暗のうちに眼ざめて、つくづく足立夫婦の親切を思い、行く先の運命をさまざまに想いめぐらして、二時の時計を聴いた。

白柳秀湖「駅夫日記」その20
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