夢二の絵は、セレナーデ 楽譜。

夢二50

その二十五
品川の海はいま深い夜のもやに包まれて、愛宕山あたごやまに傾きかけたかすかな月の光が、さながら夢のように水の面を照している。水脈みおいましめる赤いランターンは朦朧ぼんやりとあたりの靄に映って、また油のような水に落ちている。
四月一日午後十一時十二分品川発下の関直行の列車に乗るために小林浩平と私は品川停車場のプラットホームに、新橋から来る列車を待ちうけている。小林は午後三時新橋発の急行にしようと言うたのを、私は少し気がかりのことがあったので、強いてこの列車にしてもろうた。
「もう十五分だ」と小林はポケットから時計を出して、角燈ランプの光に透かして見たが、橋を渡る音がしてやがてプラットホームに一隊の男女が降りて来た。
私たちの休んでいる待合の中央の入口から洋服の紳士が、靴音高く入って来た。えならぬ物のかおりがして、花やかなすそ灯影ほかげにゆらいだと思うとその背後から高谷千代子が現われた。
言うまでもなく男は蘆鉦次郎だ。
見送りの者は室の外に立っている、男は角燈の光に私たちの顔を透かして突き立ったが、やがて思い出したと見えて、身軽に振り向くとフイとプラットホームに出てしまった。
はたして彼は私たちを覚えていた。
取りのこされた千代子は、ややうろたえたがちょいと瞳を私にうつすと、そのまま蘆の後を追ってこれもプラットホームに出る。佳人の素振りはかかる時にも、さすがに巧みなものであった。
「見たか?」と小林はニッコリ笑って私の顔をのぞいたが「にらんでやったぞ!!!」と言う。私はさすがに見苦しい敗卒であった。よもや蘆がこの列車に乗ろうとは思わなかった、この夜陰に何という新婚の旅行だろう、私はあらゆる妄念の執着を断ち切って、新しい将来のために、花々しい戦闘の途に上る、その初陣ういじんの門出にまでも、怪しい運命の糸につき纏われて、恨み散り行く花の精の抜け出したような、あのひとの姿を、今ここで見るというのは何たることであろう。
潮が満ちたのであろう、ゆるく石垣に打ち寄せる水の音、恐ろしい獣が深傷ふかでにうめくような低い工場の汽笛の声、さては電車の遠く去り近く来たるとどろきが、私の耳には今さながら夢のように聞えて、今見た千代子の姿が何となく幻影のように思いなされた。
「おい、汽車が来たようだよ」という小林の声に私は急いで手荷物を纏めてプラットホームに出た。
いつの間に来たのか乗客はかなりにプラットホームに群れている。蘆の姿も千代子の姿もさらに見えない、三等室に入って窓の際に小林と相対あいむかってすわった。一時騒々しかったプラットホームもやがて寂寞ひっそりとして、駅夫の靴の音のみ高く窓の外に響く、車掌は発車を命じた。
汽笛が鳴る……
煙の喘ぐ音、蒸汽の漏れる声、列車は徐々として進行をはじめた。私はフト車窓から首を出して見た。前の二等室から、夜目にも鮮やかな千代子の顔が見えて、たしかに私の視線と会うたと思うと、フト消えてしまった。
急いで窓を閉めて座に就くと、小林は旅行鞄の中から二個ふたつの小冊子を出して、その一部を黙って私に渡した。スカレット色の燃えるような表紙に黒い「総同盟罷工ゼネラルストライキ」という文字が鮮やかに読まれた。小林の知己しりびとでこのごろ政府からひどく睨まれている有名な某文学者の手になった翻訳である。一時京橋のある書肆しょしから発行されるという評判があって、そのまま立消えになったのが、どうしたのか今配布用の小冊子になって小林の手にある。巻末には発行所も印刷所も書いてない。
汽車は今追懐おもいでの深い蛇窪村の踏切を走っている。
(駅夫日記終)

白柳秀湖「駅夫日記」その25
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