夢二の絵、「駅夫日記」口絵より 目黒村 「駅夫日記」口絵より プラットホーム

「駅夫日記」最後の最後に蛇窪村が出てきて面白い。
でもでも嘘のような本当の話は、これからなんですね!
読み返される人は、カテゴリーで、「小説」を押してください。
「駅夫日記」その6 高谷千代子の通っていた「窮行女学院」というのは今の「実践女子学園」、
「華族女学校」というのは今の「女子学習院中等部」、校長の望月貞子というのは、歌人で、校長の下田歌子。
作者は、本当にその少女に恋をしたらしい。
そして法学士と結婚することになった彼女に迷惑がかからない様にと、見たこともない高谷千代子と言う、同じ女学校を卒業した当時芸妓をしていた人の実名を書いた。
千代子と言う芸妓は、この小説のためにとんだ売れっ子になって、世間から騒がれた。
一方で、法学士と結婚した彼女は、あまり幸福ではなかったらしい。「駅夫日記」が単行本として世にでたころには、一人男の子がいたにもかかわらず、家出をして千代子の住んでいた所に逃げ込み、離婚が成立した頃に、芸妓として花柳界に出たと言う。
これ本当の話「新興文学全集」第9巻に作者自身が書いています。
白柳秀湖「駅夫日記」その25
夢二の絵は、セレナーデ 楽譜。

その二十五
品川の海はいま深い夜の靄に包まれて、愛宕山に傾きかけたかすかな月の光が、さながら夢のように水の面を照している。水脈を警める赤いランターンは朦朧とあたりの靄に映って、また油のような水に落ちている。
四月一日午後十一時十二分品川発下の関直行の列車に乗るために小林浩平と私は品川停車場のプラットホームに、新橋から来る列車を待ちうけている。小林は午後三時新橋発の急行にしようと言うたのを、私は少し気がかりのことがあったので、強いてこの列車にしてもろうた。
「もう十五分だ」と小林はポケットから時計を出して、角燈の光に透かして見たが、橋を渡る音がしてやがてプラットホームに一隊の男女が降りて来た。
私たちの休んでいる待合の中央の入口から洋服の紳士が、靴音高く入って来た。えならぬ物の馨がして、花やかな裾が灯影にゆらいだと思うとその背後から高谷千代子が現われた。
言うまでもなく男は蘆鉦次郎だ。
見送りの者は室の外に立っている、男は角燈の光に私たちの顔を透かして突き立ったが、やがて思い出したと見えて、身軽に振り向くとフイとプラットホームに出てしまった。
はたして彼は私たちを覚えていた。
取りのこされた千代子は、ややうろたえたがちょいと瞳を私にうつすと、そのまま蘆の後を追ってこれもプラットホームに出る。佳人の素振りはかかる時にも、さすがに巧みなものであった。
「見たか?」と小林はニッコリ笑って私の顔をのぞいたが「睨んでやったぞ!!!」と言う。私はさすがに見苦しい敗卒であった。よもや蘆がこの列車に乗ろうとは思わなかった、この夜陰に何という新婚の旅行だろう、私はあらゆる妄念の執着を断ち切って、新しい将来のために、花々しい戦闘の途に上る、その初陣の門出にまでも、怪しい運命の糸につき纏われて、恨み散り行く花の精の抜け出したような、あの女の姿を、今ここで見るというのは何たることであろう。
潮が満ちたのであろう、緩く石垣に打ち寄せる水の音、恐ろしい獣が深傷にうめくような低い工場の汽笛の声、さては電車の遠く去り近く来たる轟きが、私の耳には今さながら夢のように聞えて、今見た千代子の姿が何となく幻影のように思いなされた。
「おい、汽車が来たようだよ」という小林の声に私は急いで手荷物を纏めてプラットホームに出た。
いつの間に来たのか乗客はかなりにプラットホームに群れている。蘆の姿も千代子の姿もさらに見えない、三等室に入って窓の際に小林と相対って座った。一時騒々しかったプラットホームもやがて寂寞として、駅夫の靴の音のみ高く窓の外に響く、車掌は発車を命じた。
汽笛が鳴る……
煙の喘ぐ音、蒸汽の漏れる声、列車は徐々として進行をはじめた。私はフト車窓から首を出して見た。前の二等室から、夜目にも鮮やかな千代子の顔が見えて、たしかに私の視線と会うたと思うと、フト消えてしまった。
急いで窓を閉めて座に就くと、小林は旅行鞄の中から二個の小冊子を出して、その一部を黙って私に渡した。スカレット色の燃えるような表紙に黒い「総同盟罷工」という文字が鮮やかに読まれた。小林の知己でこのごろ政府からひどく睨まれている有名な某文学者の手になった翻訳である。一時京橋のある書肆から発行されるという評判があって、そのまま立消えになったのが、どうしたのか今配布用の小冊子になって小林の手にある。巻末には発行所も印刷所も書いてない。
汽車は今追懐の深い蛇窪村の踏切を走っている。
(駅夫日記終)
白柳秀湖「駅夫日記」その24
夢二の絵は、春潮 楽譜。
その二十四
四月一日私はいよいよ小林浩平に伴われて門司へ立つのだ。三月十五日限り私は停車場をやめて、いろいろ旅の仕度に忙わしい。たとえば浮世絵の巻物を披げて見たように淡暗い硝子の窓に毎日毎日映って来た社会のあらゆる階級のさまざまな人たち、別離と思えば恋も怨みも皆夢で、残るのはただなつかしい想念ばかりである。森も岡も牧場も水車小屋も、辛い追懐の種ばかり、見るに苦しい景色ではあるけれど、これも別離と言えばまた新しい執着を覚える。
旅の支度も大かた済んだ。別離の心やみがたく私は三月二十八日の午後、権之助坂を下りてそれとはなしに大鳥神社の側の千代子の家の垣に沿うて、橋和屋という料理屋の傍から大崎の田圃に出た。
蓮華、鷺草、きんぽうげ、鍬形草、暮春の花はちょうど絵具箱を投げ出したように、曲りくねった野路を飾って、久しい紀念の夕日が岡は、遠く出島のように、メリヤス会社のところに尽きている。目黒川はその崎を繞って品川に落ちる、その水の淀んだところを亀の子島という。
大崎停車場は軌道の枕木を黒く焼いて拵えた粗っぽい柵で囲まれている。その柵の根には目覚むるような苜蓿の葉が青々と茂って、白い花が浮刻のように咲いている。私はいつかこの苜蓿の上に横たわって沈欝な灰色の空を見た。品川発電所の煤煙が黒蛇のように渦まきながら、亀の子島の松をかすめて遠い空に消えて行く、私はその煙の末をつくづくと眺めやって、私の来し方のさながら煙のようなことを思うた。
遠くけたたましい車輪の音がするので振り返って見ると、目黒の方から幌をかけた人力車が十台ばかり、勢いよく駆けて来る。雨雲の低く垂れた野中の道に白い砂塵が舞い揚って、青い麦の畑の上に消える。車は見る見る近づいて、やがて私の寝ている苜蓿の原の踏切を越えた。何の気もなく見ると、中央の華奢な車に盛装した高谷千代子がいる。地が雪のようなのに、化装を凝らしたので顔の輪廓が分らない、ちょいと私の方を見たと思うとすぐ顔をそむけてしもうた。
佳人の嫁婚!
油のような春雨がしとしとと降り出した。ちょうど一行の車が御殿山の森にかくれたころのことである。
翌日私の下宿に配達して行った新聞の「花嫁花婿」という欄に、工学士蘆鉦次郎の写真と、高谷千代子の写真とが掲載されて、六号活字の説明にこんなことが書いてあった。
蘆鉦次郎――高谷千代子――水谷造船所――四月一日、私はしばらく新聞を見つめたまま身動きも出来なかったが、私の身辺に何か目に見えない恐ろしい運命 の糸が纏いついているような気がして、われ知らず手を伸べて頭の髪を物狂わしきまでに掻きむしると、その手で新聞をビリビリと引き裂いてしまった。
白柳秀湖「駅夫日記」その23
夢二の絵は、春の鳥 口絵。
小説は、稲荷坂、木瓜の花と菫の花。
その二十三
二十歳の春は来た。
停車場もいつの間にか改築される、山の手線の複線工事も大略出来上って、一月の十五日から客車の運転は従来の三倍数になった。もうこれまでのようにのんきなことも出来ない、私たちの仕事は非常に忙しくなって来た。
鉄道国有案が議会を通過して、遠からず日鉄も官営になるという噂は、駅長の辞意をいよいよ固くした。
私は仕事の忙しくなったことをむしろ歓んで迎えた。前途に期待のある身に取っては物思う暇のないほど嬉しいことはない、一月も二月も夢のように過ぎて、南郊の春は早く梅も鶯もともに老いた。
佳人の噂はとかく絶える間もない、高谷千代子は今年『窮行女学院』を卒業するとすぐ嫁に行くそうだという評判は出札の河合を中心としてこのごろ停車場の問題である。
「女というものは処女の うちだけが花よ、学校にいればまた試験とか何とかいうて相応に苦労がある、マア学校を卒業して二三年親のところにいる間が女としては幸福な時だね、学校を 卒業するとすぐお嫁にやるなんて乳母も乳母だ、あんまり気が利かな過ぎるじゃあないか」生意気な河合はちょうど演説でもするように喋る。
「ヒヤヒヤ、二三年目黒にいて時々停車場へ遊びに来るようだとなおいいだろう」と柳瀬という新しい駅夫が冷かすと、岡田が後へついて「柳瀬なんぞは知るまいがこれには深い原因があるのだね、河合君は知っているさ、ねえ君!」
「藤岡なんぞあれで一時大いに欝ぎ込んだからね」と私の方を見て冷笑する、私は思わず顔をあからめた。
姿なり、いでたちなり、婦人というものはなるたけ男の眼を惹きつけるように装うてそれでやがて男の力によって生きようとするのだ。男の思いを惹こうとするところに罪がある。それは婦人が男によって生きねばならぬ社会の罪だ。罪は罪を生む。私たちのように汚れた、疲れた、羞かしい青年は空しく思いを惹かせられたばかりで、そこに嫉妬が起る、そこに誹謗が起る、私は世の罪を思うた。
* * *
三月十八日は高谷千代子の卒業日、私は非番で終日長峰の下宿に寝ているつもりであったけれども、何となく気が欝いでやるせがないので、家を出るとそのまま多摩川の二子の方に足を向けた。木瓜の花と菫の花とが櫟林の下に咲き乱れている。その疎らな木立越しに麦の畑が遠く続いて、菜の花の上に黒ずんだ杉の林のあらわれたところなど、景色も道も単調ではないけれど、静かな武蔵野の春にわれ知らず三里の道を行き尽して、多摩川の谷の一目に見渡される、稲荷坂に出た。
稲荷坂というのは、旧布哇公使の別荘の横手にあって、坂の中ほどに小さい稲荷の祠がある。社頭から坂の両側に続いて桜が今を盛りと咲き乱れている。たまさかの休暇を私は春の錦という都に背いて思わぬところで花を見た。祠の縁に腰をかけて、私はここで「通俗巴里一揆物語」の読みかけを出して見たが、何となく気が散って一頁も読むことが出来なかった。私は静かに坂を下りて、岸に沿うた蛇籠の上に腰かけて静かに佳人の運命を想い、水の流れをながめた。
この一個月ばかり千代子はなぜあんなに欝いでいるだろう、汽車を待つ間の椅子にも項垂れて深き想いに沈んでいる。千代子の苦悩は年ごろの処女が嫁入り前に悲しむという、その深き憂愁であろうか。
群を離れた河千鳥が汀に近く降り立った。その鳴き渡る声が、春深い霞に迷うて真昼の寂しさが身に沁みるようである。
白柳秀湖「駅夫日記」その22
夢二の絵は、暮笛 口絵。
その二十二
「いい成仏をしろよ!」と小林の差図で工夫の一人がショーブルで土を小さい棺桶の上に落した。私はせめてもの心やりに小石を拾って穴に入れる。黙っていた一人がこんどは横合いから盛り上げてある土をザラザラと落したので棺はもう大かた埋もれた。
小坊主が、人の喉を詰まらせるような冷たい空気に咽びながら、鈴を鳴らして読経をはじめた。
小林は洋服のまま角燈を提げて立っている。
私が変死した少年のことについて小林に話すと、彼は非常に同情して、隧道の崩れたのは自分の監督が行き届かなかったからで、ほかに親類がないと言うならば、このまま村役場の手に渡すのも可憐そうだからおれが引き取って埋葬してやるというので、一切を引き受けて三田村の寂しい法華寺の墓地の隅に葬ることとなった。もっともこの寺というのは例の足立駅長の世話があったのと、納豆売りをしていた少年の母のことを寺の和尚が薄々知っていたのとで、案外早く話がついて、その夜のうちに埋葬してしまうことになったのだ。
今夜はいつになく風が止んで、墓地と畑の境にそそり立った榛の梢が煙のように、冴え渡る月を抽いて物すごい光が寒竹の藪をあやしく隈どっている。幾つとなく群立った古い石塔の暗く、また明く、人の立ったようなのを見越して、なだらかな岡が見える。その岡の上に麦酒会社の建築物が現われて、黒い輪廓があざやかに、灰色の空を区画ったところなど、何とはなしに外国の景色を見るようである。
咽ぶような、絶え入るような小坊主の読経は、細くとぎれとぎれに続いた。小林監督は項垂れて考え込んでいる。
* * *
「工事が済み次第行くつもりだ、しばらくあっちへ行って働いて見るのも面白かろう、同志はすぐにも来てくれるようにと言うのだけれど今ここを外すことは出来ない、それに正軌倶楽部の方の整理もつけて行かなけりゃあ困るのだから、早くとも来年の三月末ころにはなるだろうな」
「そうなれば私も非常に嬉しいのです。停車場の方もこのごろはつくづく嫌になりましたし、なるたけ早く願いたい方です」と私は心から嬉しく答えた。
「駅長も来年の七月までということだし、それにあっちへ行けば、同志の者は僕を非常に待っていてくれるのだから、君も今より少しはいい位置が得られるだろうと思う、かたがた君のためにはマア幸福かも知れない」
「足立さんも満足して下さるでしょう」
「あの男も実に好人物だ、郷里の小学校にいた時分からの友達で、鉄道に勤めるようになってからもう二十年にもなるだろう、もう少し覇気があったなら相当な地位も得られたろうに、今辞職しちゃ細君もさぞ困るだろう」
二人は話しながら、月の光を浴びて櫟林の下を長峰の方にたどった。冬の夜は長くまだ十時を過ぎないけれども往来には人影が杜絶えて、軒燈の火も氷るばかりの寒さである。
長崎の水谷造船所と九州鉄道の労働者間にこんどよほど強固な独立の労働組合が組織されて、突然その組織が発表されたことは二三日前の新聞紙に喧しく報道された。私はその組合の幹部が皆小林監督の同志であって、春を待って私たちがその組合の事業を助けるために門司に行かねばならぬということは夢にも思わなかったが今夜小林監督にその話を聞いて、私は非常に勇み立った。
実を言うと私が門司に行くのを喜んだのは一つには目黒を去るということがあるからである。私はこのごろ、馴染みの乗客に顔を見られたり、また近処の人に遇ったりすると、何だか「あやつもいつまで駅夫をしているのか」と思われるような気がして限りなき羞恥を覚えるようになって来た。その羞かしい顔をいつまでも停車場にさらして人知れぬ苦悩を胸に包むよりも、人の生血の波濤を眼のあたり見るような、烈しい生存の渦中に身を投げて、心ゆくまで戦って戦って、戦い尽して見たいという悲壮な希望に満たされていたからである。
私は雨戸を締めるために窓の障子を開けた。月の光は霜に映って、まるで白銀の糸を引いたよう。裏の藪で狐が鳴いた。
晴海の「ハイドン」といちご大福
5月30日(金)

今日は、晴海の第一生命ホールで、ボロメーオ・ストリング・クアルテットの演奏会があるので、翠江堂にいちご大福を4個予約注文する。
夜7:00頃、いちご大福を受け取ってホール内に入る。
曲目
ハイドン/弦楽四重奏曲第79番ニ長調作品76-5「ラルゴ」
ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第3番ニ長調作品18-3
~休憩~
モーツァルト/弦楽五重奏曲第4番ト短調K516
ボロメーオ・ストリング・クァルテット
吉田有紀子(モーツァルトでの第2ヴィオラ)
初めて聴いたハイドンの「ラルゴ」に酔いしれてしまいました。
それで、家に帰ってから食べる翠江堂のいちご大福とハイドンの「ラルゴ」で今日は、一日幸せな気持ちです。
演奏会に関しては、(http://merrywillow.blog35.fc2.com/#717)をご覧下さい。
METライブビューイング@めぐろパーシモンホール
METライブビューイング アンコール上映が、めぐろパーシモンホールで上映されている。
5月26日(月)は、プッチーニ『マノン・レスコー』

5月29日(木)は、同じくプッチーニ『ラ・ボエーム』を観て来ました。

両方とも S席:3500円 13:00~ と 18:00~ の2公演です。
A席:2000円
当日券で十分、それにA席でちゃんと観られます。
5月30日(金)は、ドニゼッティー『連帯の娘』ですが、これは諦めました。
この予告編では、ナタリー・デッセイがとっても魅力的でしたよ!
そして全ての公演に、ルネ・フレミングがインタヴュアーを務めています。
☆ 来シーズンの上映プログラムを貰ったのですが、
2008年9月22日(月) ガラ・コンサート(北米のみ)
2008年10月11日(土) R.シュトラウス『サロメ』
カリタ・マッティラ
2008年11月8日(土) アダムス『ドクター・アトミック』(MET 初演)
ジェラルド・フィンリー
2008年11月22日(土) ベルリオーズ『ファウストの劫罰』(新演出)
マルチェロ・ジョルダーニ、スーザン・グラハム
2008年12月20日(土) マスネ『タイス』(新演出)
トーマス・ハンプソン、ルネ・フレミング
2009年1月10日(土) プッチーニ『つばめ』(新演出)
アンジェラ・ゲオルギウ、ロベルト・アラーニャ
2009年1月24日(土) グルック『オルフェオとエウリディーチェ』
ステファニー・ブライス、ダニエル・ドゥ・ニース
2009年2月7日(土) ドニゼッティー『ランメルモールのルチア』
アンナ・ネトレプコ
2009年3月7日(土) プッチーニ『蝶々夫人』
クリスティーナ・ガリャルド=ドマス
2009年3月21日(土) ベッリーニ『夢遊病の娘』(新演出)
ナタリー・デッセイ
2009年5月9日(土) ロッシーニ『ラ・チェネレントラ』
エリーナ・ガランチャ
日本上映については、決定次第松竹ホームページ他にて発表するそうです。
仙台へ!
5月21日(水)



仙台へ行くことになりました。 台風も過ぎて旅行にピッタリのお天気です。 まずは、東京から行くと仙台の少し手前の白石から。
白石は伊達政宗の信頼する家臣の片倉小十郎が大改修をした白石城があって、とっても静かで落ち着いた町です。
今回は、娘が案内役です。
白石城 仙台のマスコットキャラ「むすび丸」くん

片倉家の家紋は藤と笹
白石城の天守閣から見た景色

小十郎温麺(うーめん) うーめんはそうめんより少し太い

小十郎うーめんは、たっぷりのねぎとごぼう天が入っていてとってもおいしい!
こじゅうろうくんこけしは現代風で、ももちゃソフトと生いちごソフトは果肉がいっぱい。
白石市では、無料で自転車を貸し出していて、ここからは自転車で回ります。
旧小関家武家屋敷 片倉家の廟所近くの眺望

菩提寺 傑山寺一本杉にある片倉小十郎の墓

仙台駅から列車で30分ばかり、今夜の宿は松島一の坊です。


夕食は、いたり庵へ

突き出しは、もずくの山芋かけ、ほたてのからし味噌、メロンと生ハム、トマトとモッツァレラチェーズ



パスタは、気仙沼産フカヒレのパスタ 洋風茶碗蒸しとサラダ
しめくくりは、穴子の白焼き ドルチェは、ケーキ類すきなだけ

5月22日(木) 今日は、暑いくらい・・・。

松島一の坊で朝食をとってから、みちのく伊達政宗歴史館へ。
スターウォーズのダースベーダーのモデルは伊達政宗の甲冑?


みちのくの伊達男は、世界的にセンスがよかったのですね。
でもお客のいない、ろう人形館で人形に見られるのは、怖いものです。
瑞巌寺 五大堂

まだ見てないところは次の機会にしましょう。
お土産は,








この中で、「味付け朝めしのり」が一番喜ばれました(8つ切り112枚で780円)。
ガラス容器のお菓子は、松島一の坊にしかないものらしくてとってもおいしい!
まだ食べてないものもありますので・・・。
厚切りの牛タンもお~いしかった。
行きの白石で足をくじいてしまい、温泉は諦めましたが、山には藤や桐の花がが真っ盛りで、気持ちのよい旅でした。
特に宮城「おとぎ街道」として売り出し中の白石市周辺は、若者文化をばかに出来ない新鮮な雰囲気を感じました。
「伊達な旅」また行きそうですね。こんどは牡蠣のおいしい頃・・・。
白柳秀湖「駅夫日記」その21
夢二の絵は、楽譜「寄宿舎の古釣瓶」。

その二十一
少からず私の心を痛めた、足立駅長の辞職問題は、かの営業所長の切なる忠告で、来年の七月まで思いとまるということになって私はホッと一息した。
物思う身に秋は早くも暮れて、櫟林に木枯しの寂しい冬は来た。昨日まで苦しい暑さを想いやった土方の仕事は、もはや霜柱の冷たさをいたむ時となった。山の手線の複線工事も大略済んで、案の通り長峰の掘割が後に残った。このごろは日増しに土方の数を加えて、短い冬の日脚を、夕方から篝火を焚いて忙しそうに工事を急いでいる。灯の影に閃く得物の光、暗にうごめく黒い人影、罵り騒ぐ濁声、十字鍬や、スクープや、ショーブルの乱れたところは、まるで戦争の後をまのあたり観るようである。
大崎村の方から工事を進めて来た土方の一隊は長峰の旧の隧道に平行して、さらに一個の隧道を穿とうとしている。ちょうどその隧道が半分ほど穿たれたころのことであった。一夜霜が雪のように置き渡して、大地はさながら鉱石を踏むように冱てた朝、例の土方がてんでに異様ないでたちをして、零点以下の空気に白い呼気を吹きながら、隧道の上のいつものところで焚火をしようと思ってやって来て見ると、土は一丈も堕ち窪んで、掘りかけた隧道は物の見事に破壊れている。
「ヤア、大変だぞ!! こりゃあ危ない!!」と叫ぶものもあれば「人殺しい、ヤア大変だ」と騒ぎ立てる者もある。
「夜でマアよかった、工事最中にこんなことがあろうものなら、それこそ死人があったんだ」
「馬鹿ア言え夜だからこんなことがあったんだ、霜柱のせいじゃあないか」
「生意気なことを言やあがる、手前見たような奴だ、こんなところで押し潰される玉は! あんまり強吐張りを言やあがると後生がないぞ」
日がさして瓦屋根の霜の溶ける時分には近処の小売屋の女房も出て来れば、例の子守女も集まって喧しい騒ぎになって来た。監督の命令で崩れた土はすぐ停車場前の広場に積み上げる、夜を日についでも隧道工事を進めよというので、土方は朝からいつにない働き振りである。
霜日和の晴れ渡ったその日は、午後から鳶色の靄が淡くこめて、風の和いだ静かな天気であった。午後四時に私は岡田と交代して改札口を出ると今朝大騒ぎのあった隧道のところにまた人が群立って何か事故ありげに騒いでいる。どうしたのだろう、また土が崩れたのではあるまいか、そうだそれに違いないと独りで決めて見物人の肩越しにのぞいて見ると、土は今朝見たまま、大かた掘り出してちょうど井戸のようになっているばかりで別に新しく崩れたという様子もない。
「どうしたんだい、誰か負傷でもしたの」と一人が聞くと、「人が出たんですとさ、人が!」と牛乳配達らしいのが眼を丸くして言う。私は事の意外に驚いたが、もしやと言う疑念が電光のように閃いたので、無理に人を分けて前へ出て見た。
疑念というのは、土の崩れた中から出た死骸が、フト私の親しんだ乞食の少年ではないだろうか、少年は土方の夜業をして捨てて行った燼にあたるために隧道の上の菰掛けの仮小屋に来ていたのを私はたびたび見たことがあったからである。見ると死骸はもう蓆に包んで顔は見えないけれども、まだうら若い少年の足がその菰の端から現われているので、私はそれがあの少年にまぎれもないことを知った。
ああ、可憐そうなことをした!
どこからともなく襲うて来た一種の恐怖が全身に痺れ渡って、私はもう再びその菰包みを見ることすら出来なかった。昨日まであんなにしていたものを、人間の運命というものは実に分らないものだ。何という薄命な奴だろう、思うに昨夜の寒さを凌ぎかねて、焚火の燼の傍に菰を被ったままうずくまっていたところを、急に崩れ落ちて、こんなあさましい最後を遂げたに相違あるまい。
少年の事情はせめて小林監督にでも話してやろう、私は顔をあげて死骸の傍に突っ立っている逞しい労働者の群を見た。薄い冬の夕日が、弱い光をそのあから顔に投げて、猛悪な形相に一種いいしれぬ恐怖と不安の色が浮んでいる。たとえば猛獣が雷鳴を怖れてその鬣の地に敷くばかり頭を垂れた時のように、「巡査が来た!」
「大将も一しょじゃあないか」「大将が来たぞ!」と土方は口々に囁く、やがて小林監督は駐在所の巡査を伴立ってやって来た。土方は言い合わせたように道をあける。
白柳秀湖「駅夫日記」その20
夢二の絵は、楽譜「陽気な鍛冶屋」 表紙。
その二十
「今日の社会は大かた今僕が話したような状態で、ちょうどまた新しい昔の大名が出来たようなものだ。昔の大名は領土を持っていて、百姓から自分勝手に取立てをして、立派な城廓を築いたり、また大勢の臣下を抱えたりしていた。今話した富豪という奴がやっぱり昔の大名と同じで、領土の代りに資本を持っている大仕掛けの機械を持っている。資本と機械とがあればもうわれわれ労働者の生血を絞り取ることは容易いものだ。昔の祖先た ちが土下座をして大名の行列を拝んでいるところへ行って、今から後にはお大名だとか将軍様だとかいうものがなくなって、皆同等の人間として取り扱われる時 が来るというて見たところで、それを信ずるものは一人もなかったに違いない。けれども時が来れば大名もなくなる、将軍もなくなる。今僕がここで君に話した ようなことを、同輩に聞かして見たところで仕方がない。
いや、僕にしてからがこれからの社会はどんなであろうとか、いつそんな社会になるであろうというようなことを深く考えるのは大嫌いだ、またそんな暇もないのだが、少くも現在自分たちは朝から晩までこんな苦しい労働をしてもなぜ浮ぶ瀬がないのか、なぜこんな世知辛い社会になったのか、また自分たちと社会とはどういう関係になっているのかということぐらいは皆が知っていてくれなくちゃあ困る、僕が先刻話したようなことをだね」
小林監督は私を非常に愛してくれる。今日も宵から親切に話し続けて今の社会の成立をほとんど一時間にわたって熱心に説明してくれた。「先年大宮で同盟罷工があってから、一時社会では非常にあの問題が喧しかったが、労働者はそう世間で言うように煽動て見たところで容易く動くものじゃあない、世間の学者なんという奴らが、同盟罷工と言えばまるでお祭騒ぎでもしているように花々しいことに思うのが第一気に喰わねい、よしんば煽動たにしろ、また教唆したにしろ、君も知っての通りあの無教育な連中が一個月なり二個月なり饑?を忍んで団結するという事実の底には、どれほどの苦痛や悲哀があるのか知れたものではない」窪んだ眼は今にも火を見るかと思われるばかり輝いて、彼の前にはもう何者もない、彼はもう去年プラットホームで私のために工学士を突き飛ばした工夫頭ではなくて、立派な一かどの学者だ、感にうたれ項を垂れて聴きとれている私の姿が、彼にとっては百千の聴衆とも見えるようである。
「時の力というものは恐ろしいものだ。大宮一件以来もう十五年になる、僕たちが非常な苦痛を嘗めて蒔いた種がこのごろようやく芽を出しかけた。北海道にも、足尾にも、別子にも、長崎にも僕たちの思想は煙のように忍び込んで、労働者も非常な勢いで覚醒めて来た」
それから彼が、その火のような弁を続けて今にも暴風雨の来そうな世の状態を語った時には、私の若い燃えるような血潮は、脈管に溢れ渡って、何とも知れず涙の頬に流れるのを覚えなかったが、私の肩にソッと手を掛けて、
「惜しいもんだ。学問でもさせたらさぞ立派なものになるだろう……けれども行先の遠い身だ、その強い感情をやがて、世の下層に沈んで野獣のようにすさんで行く同輩のために注いでくれ給え、社会のことはすべて根気だ、僕は一生工夫や土方を相手にして溝の埋草になってしまっても、君たちのような青年があって、蒔いた種の収穫をしてくれるかと思えば安心して火の中にでも飛び込むよ」
激しい男性の涙がとめどなく流れて、私は面をあげて見ることが出来なかった。談話は尽きて小林監督は黙って五分心の洋燈を見つめていたが人気の少い寂寥とした室の夜気に、油を揚げるかすかな音が秋のあわれをこめて、冷めたい壁には朦朧と墨絵の影が映っている。
「君はもう知っているか、足立が辞職するということを」こんどは調子を変えて静かに落ち着いて言う。
「エ! 駅長さんはもうやめるのですか!」と私は寝耳に水の驚きを覚えた。「いつ止めるのでしょう、どうして……」と私の声がとぎれとぎれになる。
「この間遊びに行くとその話が出た、もっとも以前からその心はあったんだけれど、細君が引き止めていたのさ」
「駅長さんが止めてしまっちゃあ……」と私は思わず口に出したが、この人の手前何となく気がとがめて口を噤んだ。
「その話もあった。駅長がいろいろ君の身の上話もして、助役との関係も蔭ながら聞いた。もし君さえよければ足立の去ったあとは僕が及ばずながら世話をして上げよう」
その夜私はどこまでも小林に一身を任せたいこと、幸いに一人前の人間ともなった暁には、及ばずながら身を粉に砕いてもその事業のために尽したいということなどを、廻らぬ重い口で固く盟って宿を辞した。
長峰の下宿に帰ってから灯を消して床に入ったが虫の声が耳について眠られない、私は暗のうちに眼ざめて、つくづく足立夫婦の親切を思い、行く先の運命をさまざまに想いめぐらして、二時の時計を聴いた。
白柳秀湖「駅夫日記」その19
夢二の絵は、ホームソング 表紙。
小説は、山の手線複線工事、恵比須麦酒。

その十九
その春のくれ、夏の初めから山の手線の複線工事が開始せられた。目黒停車場の掘割は全線を通じて最も大規模の難工事であった。小林浩平は数多の土方や工夫を監督するために出張して、長峰に借家をする。一切の炊事は若い工夫が交代に勤めている。私は初めて小林の勢力を眼のあたり見た、私は眼に多少の文字ある駅夫などがかえって見苦しい虚栄に執着して妄想の奴隷となり、同輩互いに排斥し合うているのに、野獣のような土方や、荒くれな工夫が、この首領の下に階級の感情があくまでも強められ、団結の精神のいかにもよく固められたのを見て、私はいささか羞かしく思うた。あらぬ思いに胸を焦がして、罪もない人を嫉んだり、また悪しんだりしたことのあさましさを私はつくづく情なく思うた。
工事は真夏に入った。何しろ客車を運転しながら、溝のように狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩して行くので、仕事は容易に捗らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒の方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、だんだんと工事を進めて来る。
初めのうちは小さいトロッコで崖を崩して土を運搬していたのが、工事の進行につれて一台の汽鑵車を用うることになった。たとえば熔炉の中で人を蒸し殺すばかりの暑さの日を、悪魔の群れたような土方の一団が、てんでに十字鍬や、ショーブルを持ちながら、苦しい汗を絞って、激烈な労働に服しているところを見ると、私は何となく悲壮な感にうたれる。恵比須停車場の新設地まで泥土を運搬して行った土工列車が、本線に沿うてわずかに敷設された仮設軌道の上を徐行して来る。見ると渋を塗ったような頑丈な肌を、烈しい八月の日にさらして、赤裸体のもの、襯衣一枚のもの、赤い褌をしめたもの、鉢巻をしたもの、二三十人がてんでに得物を提げてどこということなしに乗り込んでいる。汽鑵の正面へ大の字にまたがっているのがあるかと思えば、踏台へ片足かけて、体躯を斜めに宙に浮かせているのもある。何かしきりに罵り騒ぎながら、野獣のような眼をひからせている形相は所詮人間とは思われない。
よほどのガラクタ汽鑵と見えて、空箱の運搬にも、馬力を苦しそうに喘がせて、泥煙をすさまじく突き揚げている、土工列車がプラットホーム近くで進行を止めた時、渋谷の方から客車が来た。掘割工事のところに入ると徐行して、今土工列車の傍を通る。土方は言い合わせたように客車の中をのぞき込んだが何か眼についたものと見えて、
「ハイカラ! ここまで来い」
「締めてしまうぞ……脂が乗ってやあがら」
「女学生! ハイカラ! 生かしちゃあおかねいぞ」
私は恐ろしい肉の叫喚をまのあたり聴いた。見ると三等室の戸が開いて、高谷千代子が悠々とプラットホームに降りた。華奢な洋傘をパッと拡げて、別に紅い顔をするのでもなく薄い唇の固く結ぼれた口もとに、泣くような笑うような一種冷やかな表情を浮べて階壇を登って行ってしもうた、土方はもう顧る者もない、いつの間にかセッセと働いている。
私はなぜに同じ労働者でありながら、あの土方のようにさっぱりとして働けないのであろう。
土方が額に玉のような汗を流して、腕の力で自然に勝って、あらゆるものを破壊して行く間に、私たちは、シグナルやポイントの番をして、機械に生血を吸い取られて行くのだ。私たちのこの痩せ衰えた亡者のような体躯に比べて、私はあの逞しい土方の体躯が羨ましい、そして一口でもいいからあの美しい千代子の前に立って、あんな暴言が吐いて見たい。
私は片山先生と小林監督との感化で冬の氷に鎖されたような冷たい夢から醒めて、人を羨み身を羞じるというような、気遅れがちの卑しい根性をだんだんに捨てて行くことが出来た。
新しい希望に満たされて、私は新しい秋を迎えた。
蛇窪村って?
・・・おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森の梢には巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦の煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠の色をした空を蛇窪村の方に横切っている・・・。
ー白柳秀湖「駅夫日記」その16よりー
蛇窪村なんて初めて聞いた。

トット文化館(黒柳徹子さんの基金による)の向かいにあるので分かりやすい。
道標は「ヘビクボ道」とある。その左が「キリガヤ道」右が「オホヰ道」反対側が「オオサキテイシャバ道」となっている。

さらに☆印の上神明の天祖神社にはこんなものが


荏原七福神の弁天様が祀られている「上神明天祖神社」に鎌倉時代、清水の湧き出す洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。しかし時代の移り変わ りとともに清水は途絶え、洗い場はなくなってしまいました。仕方なく白蛇は今の戸越公園の池に移り住んだのですが、やはりもといた場所が恋しくてなりませ ん。そこで旧家・森谷友吉の夢枕に立ち、元の場所に返して欲しいとお願いしました。森谷氏はこの話を天祖神社の宮司に伝え、弁天社を作って白蛇を再び迎え ることになりました。白蛇を迎えた夜、それまで星のまたたいていた空が一転にわかに掻き曇り、雷鳴とともに風が吹きすさんだといいます。
今ではその弁天社は場所を移してしまったそうですが、やはり地元の人たちの手によって残されています。天祖神社の裏側に隠れた弁天社はきっと、はじめて見 た人をビックリさせるに違いありません。なんと4匹の白蛇が屋根や柱にからまり、すぐそばの鳥居からは氣志團を思わせるリーゼント頭の龍神が顔をのぞかせ ています。
どうやら石碑に刻まれた文字からすると、昭和50年に真鍋勝さんという方が造って奉納したものなのだそうです。
これで、八つ墓村じゃなくて蛇窪村はたしかにあったことが判りました。




