5月21日(水)
仙台へ行くことになりました。 台風も過ぎて旅行にピッタリのお天気です。 まずは、東京から行くと仙台の少し手前の白石から。
白石は伊達政宗の信頼する家臣の片倉小十郎が大改修をした白石城があって、とっても静かで落ち着いた町です。
今回は、娘が案内役です。
白石城 仙台のマスコットキャラ「むすび丸」くん
片倉家の家紋は藤と笹
白石城の天守閣から見た景色
小十郎温麺(うーめん) うーめんはそうめんより少し太い
小十郎うーめんは、たっぷりのねぎとごぼう天が入っていてとってもおいしい!
こじゅうろうくんこけしは現代風で、ももちゃソフトと生いちごソフトは果肉がいっぱい。
白石市では、無料で自転車を貸し出していて、ここからは自転車で回ります。
旧小関家武家屋敷 片倉家の廟所近くの眺望
菩提寺 傑山寺一本杉にある片倉小十郎の墓
仙台駅から列車で30分ばかり、今夜の宿は松島一の坊です。
夕食は、いたり庵へ
突き出しは、もずくの山芋かけ、ほたてのからし味噌、メロンと生ハム、トマトとモッツァレラチェーズ
パスタは、気仙沼産フカヒレのパスタ 洋風茶碗蒸しとサラダ
しめくくりは、穴子の白焼き ドルチェは、ケーキ類すきなだけ
5月22日(木) 今日は、暑いくらい・・・。
松島一の坊で朝食をとってから、みちのく伊達政宗歴史館へ。
スターウォーズのダースベーダーのモデルは伊達政宗の甲冑?
みちのくの伊達男は、世界的にセンスがよかったのですね。
でもお客のいない、ろう人形館で人形に見られるのは、怖いものです。
瑞巌寺 五大堂
まだ見てないところは次の機会にしましょう。
お土産は,
この中で、「味付け朝めしのり」が一番喜ばれました(8つ切り112枚で780円)。
ガラス容器のお菓子は、松島一の坊にしかないものらしくてとってもおいしい!
まだ食べてないものもありますので・・・。
厚切りの牛タンもお~いしかった。
行きの白石で足をくじいてしまい、温泉は諦めましたが、山には藤や桐の花がが真っ盛りで、気持ちのよい旅でした。
特に宮城「おとぎ街道」として売り出し中の白石市周辺は、若者文化をばかに出来ない新鮮な雰囲気を感じました。
「伊達な旅」また行きそうですね。こんどは牡蠣のおいしい頃・・・。
白柳秀湖「駅夫日記」その21
夢二の絵は、楽譜「寄宿舎の古釣瓶」。
その二十一
少からず私の心を痛めた、足立駅長の辞職問題は、かの営業所長の切なる忠告で、来年の七月まで思いとまるということになって私はホッと一息した。
物思う身に秋は早くも暮れて、櫟林に木枯しの寂しい冬は来た。昨日まで苦しい暑さを想いやった土方の仕事は、もはや霜柱の冷たさをいたむ時となった。山の手線の複線工事も大略済んで、案の通り長峰の掘割が後に残った。このごろは日増しに土方の数を加えて、短い冬の日脚を、夕方から篝火を焚いて忙しそうに工事を急いでいる。灯の影に閃く得物の光、暗にうごめく黒い人影、罵り騒ぐ濁声、十字鍬や、スクープや、ショーブルの乱れたところは、まるで戦争の後をまのあたり観るようである。
大崎村の方から工事を進めて来た土方の一隊は長峰の旧の隧道に平行して、さらに一個の隧道を穿とうとしている。ちょうどその隧道が半分ほど穿たれたころのことであった。一夜霜が雪のように置き渡して、大地はさながら鉱石を踏むように冱てた朝、例の土方がてんでに異様ないでたちをして、零点以下の空気に白い呼気を吹きながら、隧道の上のいつものところで焚火をしようと思ってやって来て見ると、土は一丈も堕ち窪んで、掘りかけた隧道は物の見事に破壊れている。
「ヤア、大変だぞ!! こりゃあ危ない!!」と叫ぶものもあれば「人殺しい、ヤア大変だ」と騒ぎ立てる者もある。
「夜でマアよかった、工事最中にこんなことがあろうものなら、それこそ死人があったんだ」
「馬鹿ア言え夜だからこんなことがあったんだ、霜柱のせいじゃあないか」
「生意気なことを言やあがる、手前見たような奴だ、こんなところで押し潰される玉は! あんまり強吐張りを言やあがると後生がないぞ」
日がさして瓦屋根の霜の溶ける時分には近処の小売屋の女房も出て来れば、例の子守女も集まって喧しい騒ぎになって来た。監督の命令で崩れた土はすぐ停車場前の広場に積み上げる、夜を日についでも隧道工事を進めよというので、土方は朝からいつにない働き振りである。
霜日和の晴れ渡ったその日は、午後から鳶色の靄が淡くこめて、風の和いだ静かな天気であった。午後四時に私は岡田と交代して改札口を出ると今朝大騒ぎのあった隧道のところにまた人が群立って何か事故ありげに騒いでいる。どうしたのだろう、また土が崩れたのではあるまいか、そうだそれに違いないと独りで決めて見物人の肩越しにのぞいて見ると、土は今朝見たまま、大かた掘り出してちょうど井戸のようになっているばかりで別に新しく崩れたという様子もない。
「どうしたんだい、誰か負傷でもしたの」と一人が聞くと、「人が出たんですとさ、人が!」と牛乳配達らしいのが眼を丸くして言う。私は事の意外に驚いたが、もしやと言う疑念が電光のように閃いたので、無理に人を分けて前へ出て見た。
疑念というのは、土の崩れた中から出た死骸が、フト私の親しんだ乞食の少年ではないだろうか、少年は土方の夜業をして捨てて行った燼にあたるために隧道の上の菰掛けの仮小屋に来ていたのを私はたびたび見たことがあったからである。見ると死骸はもう蓆に包んで顔は見えないけれども、まだうら若い少年の足がその菰の端から現われているので、私はそれがあの少年にまぎれもないことを知った。
ああ、可憐そうなことをした!
どこからともなく襲うて来た一種の恐怖が全身に痺れ渡って、私はもう再びその菰包みを見ることすら出来なかった。昨日まであんなにしていたものを、人間の運命というものは実に分らないものだ。何という薄命な奴だろう、思うに昨夜の寒さを凌ぎかねて、焚火の燼の傍に菰を被ったままうずくまっていたところを、急に崩れ落ちて、こんなあさましい最後を遂げたに相違あるまい。
少年の事情はせめて小林監督にでも話してやろう、私は顔をあげて死骸の傍に突っ立っている逞しい労働者の群を見た。薄い冬の夕日が、弱い光をそのあから顔に投げて、猛悪な形相に一種いいしれぬ恐怖と不安の色が浮んでいる。たとえば猛獣が雷鳴を怖れてその鬣の地に敷くばかり頭を垂れた時のように、「巡査が来た!」
「大将も一しょじゃあないか」「大将が来たぞ!」と土方は口々に囁く、やがて小林監督は駐在所の巡査を伴立ってやって来た。土方は言い合わせたように道をあける。
白柳秀湖「駅夫日記」その20
夢二の絵は、楽譜「陽気な鍛冶屋」 表紙。
その二十
「今日の社会は大かた今僕が話したような状態で、ちょうどまた新しい昔の大名が出来たようなものだ。昔の大名は領土を持っていて、百姓から自分勝手に取立てをして、立派な城廓を築いたり、また大勢の臣下を抱えたりしていた。今話した富豪という奴がやっぱり昔の大名と同じで、領土の代りに資本を持っている大仕掛けの機械を持っている。資本と機械とがあればもうわれわれ労働者の生血を絞り取ることは容易いものだ。昔の祖先た ちが土下座をして大名の行列を拝んでいるところへ行って、今から後にはお大名だとか将軍様だとかいうものがなくなって、皆同等の人間として取り扱われる時 が来るというて見たところで、それを信ずるものは一人もなかったに違いない。けれども時が来れば大名もなくなる、将軍もなくなる。今僕がここで君に話した ようなことを、同輩に聞かして見たところで仕方がない。
いや、僕にしてからがこれからの社会はどんなであろうとか、いつそんな社会になるであろうというようなことを深く考えるのは大嫌いだ、またそんな暇もないのだが、少くも現在自分たちは朝から晩までこんな苦しい労働をしてもなぜ浮ぶ瀬がないのか、なぜこんな世知辛い社会になったのか、また自分たちと社会とはどういう関係になっているのかということぐらいは皆が知っていてくれなくちゃあ困る、僕が先刻話したようなことをだね」
小林監督は私を非常に愛してくれる。今日も宵から親切に話し続けて今の社会の成立をほとんど一時間にわたって熱心に説明してくれた。「先年大宮で同盟罷工があってから、一時社会では非常にあの問題が喧しかったが、労働者はそう世間で言うように煽動て見たところで容易く動くものじゃあない、世間の学者なんという奴らが、同盟罷工と言えばまるでお祭騒ぎでもしているように花々しいことに思うのが第一気に喰わねい、よしんば煽動たにしろ、また教唆したにしろ、君も知っての通りあの無教育な連中が一個月なり二個月なり饑?を忍んで団結するという事実の底には、どれほどの苦痛や悲哀があるのか知れたものではない」窪んだ眼は今にも火を見るかと思われるばかり輝いて、彼の前にはもう何者もない、彼はもう去年プラットホームで私のために工学士を突き飛ばした工夫頭ではなくて、立派な一かどの学者だ、感にうたれ項を垂れて聴きとれている私の姿が、彼にとっては百千の聴衆とも見えるようである。
「時の力というものは恐ろしいものだ。大宮一件以来もう十五年になる、僕たちが非常な苦痛を嘗めて蒔いた種がこのごろようやく芽を出しかけた。北海道にも、足尾にも、別子にも、長崎にも僕たちの思想は煙のように忍び込んで、労働者も非常な勢いで覚醒めて来た」
それから彼が、その火のような弁を続けて今にも暴風雨の来そうな世の状態を語った時には、私の若い燃えるような血潮は、脈管に溢れ渡って、何とも知れず涙の頬に流れるのを覚えなかったが、私の肩にソッと手を掛けて、
「惜しいもんだ。学問でもさせたらさぞ立派なものになるだろう……けれども行先の遠い身だ、その強い感情をやがて、世の下層に沈んで野獣のようにすさんで行く同輩のために注いでくれ給え、社会のことはすべて根気だ、僕は一生工夫や土方を相手にして溝の埋草になってしまっても、君たちのような青年があって、蒔いた種の収穫をしてくれるかと思えば安心して火の中にでも飛び込むよ」
激しい男性の涙がとめどなく流れて、私は面をあげて見ることが出来なかった。談話は尽きて小林監督は黙って五分心の洋燈を見つめていたが人気の少い寂寥とした室の夜気に、油を揚げるかすかな音が秋のあわれをこめて、冷めたい壁には朦朧と墨絵の影が映っている。
「君はもう知っているか、足立が辞職するということを」こんどは調子を変えて静かに落ち着いて言う。
「エ! 駅長さんはもうやめるのですか!」と私は寝耳に水の驚きを覚えた。「いつ止めるのでしょう、どうして……」と私の声がとぎれとぎれになる。
「この間遊びに行くとその話が出た、もっとも以前からその心はあったんだけれど、細君が引き止めていたのさ」
「駅長さんが止めてしまっちゃあ……」と私は思わず口に出したが、この人の手前何となく気がとがめて口を噤んだ。
「その話もあった。駅長がいろいろ君の身の上話もして、助役との関係も蔭ながら聞いた。もし君さえよければ足立の去ったあとは僕が及ばずながら世話をして上げよう」
その夜私はどこまでも小林に一身を任せたいこと、幸いに一人前の人間ともなった暁には、及ばずながら身を粉に砕いてもその事業のために尽したいということなどを、廻らぬ重い口で固く盟って宿を辞した。
長峰の下宿に帰ってから灯を消して床に入ったが虫の声が耳について眠られない、私は暗のうちに眼ざめて、つくづく足立夫婦の親切を思い、行く先の運命をさまざまに想いめぐらして、二時の時計を聴いた。
白柳秀湖「駅夫日記」その19
夢二の絵は、ホームソング 表紙。
小説は、山の手線複線工事、恵比須麦酒。
その十九
その春のくれ、夏の初めから山の手線の複線工事が開始せられた。目黒停車場の掘割は全線を通じて最も大規模の難工事であった。小林浩平は数多の土方や工夫を監督するために出張して、長峰に借家をする。一切の炊事は若い工夫が交代に勤めている。私は初めて小林の勢力を眼のあたり見た、私は眼に多少の文字ある駅夫などがかえって見苦しい虚栄に執着して妄想の奴隷となり、同輩互いに排斥し合うているのに、野獣のような土方や、荒くれな工夫が、この首領の下に階級の感情があくまでも強められ、団結の精神のいかにもよく固められたのを見て、私はいささか羞かしく思うた。あらぬ思いに胸を焦がして、罪もない人を嫉んだり、また悪しんだりしたことのあさましさを私はつくづく情なく思うた。
工事は真夏に入った。何しろ客車を運転しながら、溝のように狭い掘割の中で小山ほどもある崖を崩して行くので、仕事は容易に捗らぬ、一隊の工夫は恵比須麦酒の方から一隊の工夫は大崎の方から目黒停車場を中心として、だんだんと工事を進めて来る。
初めのうちは小さいトロッコで崖を崩して土を運搬していたのが、工事の進行につれて一台の汽鑵車を用うることになった。たとえば熔炉の中で人を蒸し殺すばかりの暑さの日を、悪魔の群れたような土方の一団が、てんでに十字鍬や、ショーブルを持ちながら、苦しい汗を絞って、激烈な労働に服しているところを見ると、私は何となく悲壮な感にうたれる。恵比須停車場の新設地まで泥土を運搬して行った土工列車が、本線に沿うてわずかに敷設された仮設軌道の上を徐行して来る。見ると渋を塗ったような頑丈な肌を、烈しい八月の日にさらして、赤裸体のもの、襯衣一枚のもの、赤い褌をしめたもの、鉢巻をしたもの、二三十人がてんでに得物を提げてどこということなしに乗り込んでいる。汽鑵の正面へ大の字にまたがっているのがあるかと思えば、踏台へ片足かけて、体躯を斜めに宙に浮かせているのもある。何かしきりに罵り騒ぎながら、野獣のような眼をひからせている形相は所詮人間とは思われない。
よほどのガラクタ汽鑵と見えて、空箱の運搬にも、馬力を苦しそうに喘がせて、泥煙をすさまじく突き揚げている、土工列車がプラットホーム近くで進行を止めた時、渋谷の方から客車が来た。掘割工事のところに入ると徐行して、今土工列車の傍を通る。土方は言い合わせたように客車の中をのぞき込んだが何か眼についたものと見えて、
「ハイカラ! ここまで来い」
「締めてしまうぞ……脂が乗ってやあがら」
「女学生! ハイカラ! 生かしちゃあおかねいぞ」
私は恐ろしい肉の叫喚をまのあたり聴いた。見ると三等室の戸が開いて、高谷千代子が悠々とプラットホームに降りた。華奢な洋傘をパッと拡げて、別に紅い顔をするのでもなく薄い唇の固く結ぼれた口もとに、泣くような笑うような一種冷やかな表情を浮べて階壇を登って行ってしもうた、土方はもう顧る者もない、いつの間にかセッセと働いている。
私はなぜに同じ労働者でありながら、あの土方のようにさっぱりとして働けないのであろう。
土方が額に玉のような汗を流して、腕の力で自然に勝って、あらゆるものを破壊して行く間に、私たちは、シグナルやポイントの番をして、機械に生血を吸い取られて行くのだ。私たちのこの痩せ衰えた亡者のような体躯に比べて、私はあの逞しい土方の体躯が羨ましい、そして一口でもいいからあの美しい千代子の前に立って、あんな暴言が吐いて見たい。
私は片山先生と小林監督との感化で冬の氷に鎖されたような冷たい夢から醒めて、人を羨み身を羞じるというような、気遅れがちの卑しい根性をだんだんに捨てて行くことが出来た。
新しい希望に満たされて、私は新しい秋を迎えた。
蛇窪村って?
・・・おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森の梢には巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦の煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠の色をした空を蛇窪村の方に横切っている・・・。
ー白柳秀湖「駅夫日記」その16よりー
蛇窪村なんて初めて聞いた。
トット文化館(黒柳徹子さんの基金による)の向かいにあるので分かりやすい。
道標は「ヘビクボ道」とある。その左が「キリガヤ道」右が「オホヰ道」反対側が「オオサキテイシャバ道」となっている。
さらに☆印の上神明の天祖神社にはこんなものが
荏原七福神の弁天様が祀られている「上神明天祖神社」に鎌倉時代、清水の湧き出す洗い場があり、そこに白蛇が住んでいました。しかし時代の移り変わ りとともに清水は途絶え、洗い場はなくなってしまいました。仕方なく白蛇は今の戸越公園の池に移り住んだのですが、やはりもといた場所が恋しくてなりませ ん。そこで旧家・森谷友吉の夢枕に立ち、元の場所に返して欲しいとお願いしました。森谷氏はこの話を天祖神社の宮司に伝え、弁天社を作って白蛇を再び迎え ることになりました。白蛇を迎えた夜、それまで星のまたたいていた空が一転にわかに掻き曇り、雷鳴とともに風が吹きすさんだといいます。
今ではその弁天社は場所を移してしまったそうですが、やはり地元の人たちの手によって残されています。天祖神社の裏側に隠れた弁天社はきっと、はじめて見 た人をビックリさせるに違いありません。なんと4匹の白蛇が屋根や柱にからまり、すぐそばの鳥居からは氣志團を思わせるリーゼント頭の龍神が顔をのぞかせ ています。
どうやら石碑に刻まれた文字からすると、昭和50年に真鍋勝さんという方が造って奉納したものなのだそうです。
これで、八つ墓村じゃなくて蛇窪村はたしかにあったことが判りました。
白柳秀湖「駅夫日記」その18
夢二の絵は、歌劇「カルメン」ハバネラの歌表紙。
その十八
寂しい冬の日は暮れて、やわらかな春の光がまた武蔵野にめぐって来た。
ちょうど三月の末、麦酒会社の岡につづいた桜の莟が綻びそめたころ、私は白金の塾で大槻医師が転居するという噂を耳にした。塾というのは片山という基督教 信者が開いているのでもとは学校の教師をしていたのが、文部省の忌憚に触れて、それからはもう職を求めようともせず、白金今里町の森の中に小さい塾を開い て近処の貧乏人の子供を集めては気焔を吐いている。駅長とは年ごろ懇意にしているので私は駅長の世話で去年の秋の暮あたりから休暇の日の午後をこの片山の 塾に通うこととした。
片山泉吉というて年齢は五十ばかり、思想は古いけれども、明治十八年ごろに洗礼を受けて、国粋保存主義とは随分はげしい衝突をして来たので、貧乏の中に老いたけれども、気骨はなかなか青年を凌ぐ勢いである。
私はこの老夫子の感化で多少読書力も出来る。労働を卑しみ、無学を羞じて、世をはかなみ、身をかねるというような女々しい態度から小さいながら、弱いながらも胸の焔を吐いて、冷たい社会を燬きつくしてやろうというような男々しい考えも湧いて来た。
大槻が転居するという噂は、私にとって全然、他事のようには思われなかった、私はそれとなく駅長の細君に、聞いて見たが噂は全く事実であった。肌寒い春の夕がた私は停車場の柱によって千代子の悲愁を想いやった。思いなしかこのごろその女の顔がどうやら憔れたようにも見える。
大槻の家族が巣鴨に転居してから、一週間ばかり、金曜の午後私が改札口にいると大槻芳雄が来て小形の名刺を私に渡して小声で囁いた。
「高谷さんにこれを渡してくれないか」率直に言えば私は大槻が嫌いだ、大槻が嫌いなのは私の嫉妬ではないと思う。けれども私が今これを拒むのは何となく嫉妬のように見えてそれは卑怯だという声が心の底で私を責める、私は黙って諾いた。
「ありがとう!」といかにも嬉しそうに言うたが、「君だからこんなことを頼むのよ、いいねきっと渡してくれ給え!」と念を押すようにして、ニッコリ笑うた、何という美しい青年であろう、心憎いというのはこういう姿であろう。
どうしたものかその日千代子の学校の帰りは晩かった。どこでどうして私はこれを千代子に渡そうかと思ったが、胸は何となく安からぬ思いに悩んだ、長い春の日も暮れて火ともしごろ、なまめかしい廂髪に美人草の釵をさした千代子の姿がプラットホームに現われた。私は千代子の背後について階壇を昇ったが、ほかに客はほとんどない。
「高谷さん!」私はあたりをはばかりながら呼びかけた。思いなしか千代子は小走りに急ぐ、「高谷さん!」と呼ぶと、こんどは中壇に立ち止って私の方を向いたが、怪訝な顔をして口もとを手巾でおおいながら、鮮やかな眉根をちょいと顰めている。
「何ですか大槻さんがこれをあなたに上げて下さいって……」と私は名刺を差し出した。
「ああそう」と虫の呼気のように応えたが、サモきまりが悪そうに受け取って、淡暗い洋燈の光ですかして見たが、「どうもありがとう」と迷惑そうに会釈する。私はこの千代子の冷胆な態度に、ちょうど、長い夢から醒めた人のようにしばらくはぼんやりとして立ち尽した。
辛い人の世の生存に敗れたものは、鳩のような処女の、繊弱い足の下にさえも蹂み躙られなければならないのか。
翌日、千代子は化粧を 凝らして停車場に来た。その夕、大槻は千代子を送ってプラットホームに降りたが、上野行きの終列車で帰った。土曜、日曜の夕、その後私は幾たびも大槻が千 代子を送って目黒に来るのを見た。二人がひそひそと語らいながら、私の顔を見ては何事か笑い興ずるような時など、私は胸を刳って嬲り殺しにされるような思いがした。
佳人と才子との恋はその後幾ほどもなく消え失せて大槻の姿は再び目黒の階壇に見られなくなった。例えば曠野に吐き出した列車の煤煙のように、さしも烈しかった世間の噂もいつとはなしに消えて、高谷千代子の姿はいま暮春の花と見るばかり独り、南郊の岡に咲きほこっている。
白柳秀湖「駅夫日記」その17
夢二の絵は、雑誌「新少女」さし絵。
小説は、恋について・・・。
その十七
その年も暮れて私は十九歳の春を迎えた。
停車場ではこのごろ鉄の火鉢に火を山のようにおこして、硝子窓 を閉めきった狭い部屋の中で、駅長の影さえ見えなければ椅子を集めて高谷千代子と大槻芳雄の恋物語をする、駅長と大槻とは知己なので駅長のいる時はさすが に一同遠慮しているけれども、助役の当番の時なんぞは、ほとんど終日その噂で持ちきるようなありさまである。おれはかしこの森で二人の姿を見たというもの があれば、おれはここの野道で二人が手を取って歩いているのを見たという者がある。それから話の花が咲いて、あることないこと、果ては聴くに忍びないよう な猥りがましい噂に落ちて、ドッと笑う。
最もこれは停車場ばかりの噂ではなかった、長峰の下宿の女房も、権之助坂の団子屋の老婆も、私は至るところで千代子の恋の噂を耳にした、千代子は絶世の美人というのではないけれども、大理石のように緻やかな肌、愛嬌の滴るような口もと、小鹿が母を慕うような優しい瞳は少くとも万人の眼を惹いて随分評判の高かっただけに世間の嫉妬もまた恐ろしい。
嫉妬! 私は世間の嫉妬の恐ろしさを今初めて知った。憐れなる乙女は切なる初恋の盃に口つけする間もなく、身はいつの間にかこの恐ろしい毒焔の渦まきに包まれて、身動きも出来ない?謗の糸は幾重にもそのいたいけな手足を縛めていたのである。「どうして大槻という奴は有名な男地獄で、もう横浜にいた時分から婆芸妓なんかに可愛がられたことがあって大変な玉なんだ」と誰やらがこんなことをいうた。
「女だってそうよ、虫も殺さないような顔はしていても、根が越後女だからな」私はこんな?誣の声を聞くたびに言うに言われぬ辛い思いをした。私の同情は無論純粋の清い美しい同情ではなかった。二人の運命を想いやる時には、いつでも羞かしい我の影がつき纏うて、他人の幸福を呪うようなあさましい根性も萌すのであった。
実際千代子の大槻に対する恋は優しい、はげしい、またいじらしい初恋のまじりなき真情であった。万事に甘い乳母を相手の生活は千代子に自由の時を与えたので、二人夕ぐれの逍遙など、深き悲痛を包んだ私にとってはこの上なく恨めしいことであった。
貧しき者は、忘れても人を恋するものでない。
恋――というもおこがましいが、私にとっては切なる恋、その恋のやぶれから、言いしれぬ深い悲哀がある上に、私は思いがけない同輩の憎悪を負わなければならない身となった。それは去年の秋の蘆工学士の事件から私は足立駅長に少からぬ信用を得て、時々夜など社宅に呼ばれることがある、ほかの同輩はそれを非常に嫌に思うている。
私は性来の無口、それに人との交際が下手で一たび隔った心は、いつ調和がつくということもなく日に疎ましくなって行く、磯助役を始め同輩の者はこのごろろくろく口を聞くこともまれである。私はこんなに同輩から疎まれるとともに親しい一人の友が出来た、それはかの飄浪の少年であった。
このごろの寒空に吹きさらされてさすがに堪えかねるのであろう。日あたりのいい停車場の廊下に来て、うずくまっては例の子守女にからかわれている、雪の降る日、氷雪の日、少年は人力車夫の待合に行って焚火にあたることを許される。
少年は三日におかず来る、私は暇さえあればこの小さい飄浪者を相手にいろいろの話をして、辛くあたる同輩の刃のような口を避けた。私はいつか千代子と行き会ったかの橋の欄干に倚って、冬枯れの曠野にションボリと孤独の寂寥を心ゆくまでに味わうことも幾たびかであった。
白柳秀湖「駅夫日記」その16
夢二の絵は、画集「旅の巻」カバー。
小説は、目黒不動、桐ヶ谷の火葬場、碑文谷、蛇窪村、葡萄鼠色、五位鷺。
その十六
社宅を辞して戸外に出ると夜は更けて月の光は真昼のようである。私は長峰の下宿に帰らず、そのまま夢のような大地を踏んで石壇道の雨に洗われて険しい行人坂を下りた。
故郷の母のこと、下谷の伯母のこと、それから三崎町の「苦学社」で嘗めた苦痛と恐怖とを想い浮べて連想は果てしもなく、功名の夢の破滅に驚きながらいつしか私は高谷千代子に対する愚かなる恋を思うた。私がこれまで私の恋を思うたびに、冷たい私の知恵は私の耳に囁やいて、恋ではない、恋ではないとわれとわが心を欺いてわずかに良心の呵責を免れていたが、今宵この月の光を浴びて来し方の詐欺に思い至ると、自分ながら自分の心のあさましさに驚かれる。
私は今改めて自白する、私の千代子に対する恋は、ほとんど一年にわたる私の苦悩であった、煩悶であった。
そして私はいままた改めてこの月に誓う、私は千代子に対する恋を捨てて新しい希望に向って、男らしく進まなければならない。ちょうど千代子が私に対するような冷たさを、数限りなき私たちの同輩はこの社会から受けているではないか。私はもう決して高谷千代子のことなんか思わない。
決心につれて涙がこぼれる。立ち尽すと私は初めて荒漠なあたりの光景に驚かされた、かすかな深夜の風が玉蜀黍の枯葉に戦いで、轡虫の声が絶え絶えに、行く秋のあわれをこめて聞えて来る。先刻、目黒の不動の門前を通ったことだけは夢のように覚えているが、今気がついて見ると私は桐ヶ谷から碑文谷に通う広い畑の中に佇んでいる。夜はもう二時を過ぎたろう、寂寞としてまるで絶滅の時を見るようである。
人の髪の毛の焦げるような一種異様な臭気がどこからともなく身に迫って鼻を撲ったと思うと、ぞっとするように物寂しい夜気が骨にまでも沁み渡る。
何だろう、何の臭気だろう。
おお、私はいつの間にか桐ヶ谷の火葬場の裏に立っていたのだ。森の梢には巨人が帽を脱いで首を出したように赤煉瓦の煙筒が見えて、ほそほそと一たび高く静かな空に立ち上った煙は、また横にたなびいて傾く月の光に葡萄鼠の色をした空を蛇窪村の方に横切っている。
私は多摩川の丸子街道に出て、大崎に帰ろうとすると火葬場の門のあたりで四五人の群に行き合うた。私はこの人たちが火葬場へ仏の骨を拾いに来たのだとい うことを知った。両傍に尾花の穂の白く枯れた田舎道を何か寂しそうにヒソヒソと語らいながら平塚村の方に行く後影を私は見送りながら佇んだ。
「おい兄や、どうしてこんなとこへ来たんだいおかしいな、狐に魅まれたんじゃあないの?」
私は少年の声にぞっとして振り向きさま、月あかりにすかして見ると驚いた。この間雨の日に停車場で五銭の白銅をくれてやった、あの少年ではないか。
「君か、君こそどうしてこんなところに来ているのかい」と私はニタニタ笑っている少年の顔を薄気味悪くのぞきながら問い返した。
「おらア当り前よ、ここのお客様に貰いに来ているのじゃあないか、兄やこそおかしいや!」と少年はしきりに笑っている。
ああ、少年は火葬場に骨拾いに来る人を待ち受けて施与を貰うために、この物淋しい月の夜をこんなところに彷徨いているのだ。
五位鷺が鳴いて夜は暁に近づいた。
☆ 蛇窪村は、現在の戸越公園あたり
「駅夫日記」をたどって
「駅夫日記」が15まで来ました。
中休みとして、目黒駅~行人坂~雅叙園~権之助坂~大鳥神社~目黒不動まで写真でたどってみます。
目黒駅~行人坂~大圓寺~雅叙園
明和9年(1772)2月29日行人坂大圓寺から上がった火の手は、強風に煽られ3日3晩にわたる大火事になり、
江戸930余町(江戸の町の1/3)を焼き尽くした。 亡くなった人14700余名を供養するために作られた
五百羅漢の仏像群は、それぞれの表情に特徴があります。この年幕府は、「めいわくの年」だとして年号を
「安永」に変えました。
大圓寺には、八百屋お七にまつわる話もあって、天和2年(1682)の火事の際自宅を焼かれた八百屋の
お七は、駒込の円林寺に仮住まいしており、その時に寺小姓の吉三に恋したと言う。恋こがれたお七は、
吉三に会いたい一心で翌年自分の家に放火したために、江戸市中を引き回しの上、鈴が森の処刑場で
火刑にされた。
その後、吉三は、僧となり名を「西運」と改め諸国を行脚、後に大圓寺の下の明王院(現雅叙園)に入って
お七の菩提を弔うため往復十里の道のりを浅草観音まで一万日の行を27年と5ヶ月かけて成し遂げた。
また「西運」は、江戸市民から浄財の寄進を受け、これを基に行人坂に敷石の道をつくり、目黒川に石の
太鼓橋を架けた。
これが雅叙園(元 明王院)
太鼓橋~権之助坂~大鳥神社
石の太鼓橋 権之助坂の橋から見た目黒川
この大鳥神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に縁があるこの地に大同元年(806)に創建された区内最古の神社です。
江戸地図として古いものとされる「長禄江戸地図」に書かれている古江戸9社の1つで、
目黒村の総鎮守でもありました。毎年11月に開かれる酉の市が有名。
~目黒不動
大鳥神社を過ぎて、寄生虫館を左に折れると閑静な住宅街が続き、突き当たったところが目黒不動の裏手になる。
目黒不動は、毎月28日が縁日で車は通行止めとなっており、いつも門前の「にしむら」で鰻を買っている我が家としては、
表から見る目黒不動と裏からみる目黒不動とは、全く違う。
白柳秀湖「駅夫日記」その15
夢二の絵は、雑誌「若草」。
その十五
その夜駅長は茶を啜りながら、この間プラットホームで蘆工学士を突き倒した小林浩平の身の上話をしてくれた、私がただ学問とか栄誉とかいうはかないうつし世の虚栄を慕うて、現実の身を愧じ、世をかねる若い心をあわれと思ったからであろう。その話の大概はこうであった。
小林というのは駅長の郷里で一番の旧家でまた有名な資産家であった先代に男の子がなくて娘ばかり三人、総領のお幾というのが弥吉という婿を迎えて、あとの娘二人はそれぞれよそに嫁づいてしもうた。この弥吉とお幾との間に出来たのがかの小林浩平で、駅長とは竹馬の友であった。
ところがお幾は浩平を産むととかく病身で、彼がやっと六歳の時に病死してしもうた。弥吉もまだ年齢は若いし、独身で暮すわけにも行かないので、小林の血統から後妻を迎えておだやかに暮して行くうちに後妻にも男の子が二人も生まれた。
弥吉は性来義理固い男で、浩平は小林家の一粒種だというので、かりそめの病気にも非常に気を揉んで、後妻に出来た子どもとは比較にならないほど大切にする。妻も無教育な女にしては珍らしい心がけの女で夫の処致を夢さら悪く思うようなことなく、実子はさて措いて浩平に尽すという風で、世間の評判もよく弥吉も妻の仕打ちを非常に満足に想うていた。
ところが浩平が成長して見ると誰の気質を受けたものか、よほどの変物であった。頭が割合に大きいのに顎がこけて愛嬌の少しもない、いわば小児らしいところの少い、陰気な質であった。学友はいつしか彼を「らっきょ」と呼びなして囃し立てたけれども、この陰欝な少年の眼には一種不敵の光が浮んでいた。
中学へ行ってからのことは駅長は少しも知らなかったそうだ。しかし一しょに行ったものの話では小学時代と打って変って恐ろしい乱暴者になったそうだ。卒業する時には誰でも小林は軍人志願だろうと想像していたが、彼は上京して東京専門学校で文学を修めた、この間駅長は鉄道学校にいて彼に関する消息は少しも知らなかったが、四年ばかり以前に日鉄労働者の大同盟罷工が行われた時、正気倶楽部の代表者として現われたのは、工夫あがりの小林浩平であった。
驚いて様子を聞いて見ると、彼は学校を出るとそのまま、父親に手紙をやって「小作人の汗と株券の利子とで生活するのは人間の最大罪悪だ、家産は弟にや る、自分はどうか自由に放任しておいてくれ」という意味を書き送った。父親は非常に驚いて何か不平でもあるのか、家産を弟に譲っては小林家の先祖に対して 申しわけがない、ことに世間で親の仕打ちが悪いから何か不平があって、面当てにすることと思われては困るというので、泣くようにして頼んで見たけれど浩平 は頑として聞かなかった、百方手を尽して見たけれどもそれは全く無駄であった。
村では浩平が気が触れたのだという評判をする者さえあったそうだ。
幾万の家産を抛ち、 義理ある父母を棄てた浩平はそのまま工夫の群に姿を隠したがいつの間にかその前半生の歴史をくらましてしもうた。彼が野獣のような工夫の団結を見事に造り 上げて、その陣頭に現われた時には社会に誰一人として彼の学歴を知っているものはなかったのである。駅長はそのころ中仙道大宮駅に奉職ていて、十幾年かぶりで小林に会見したのであったそうだ。
「君なんぞまだ若気の一途に、学問とか、名誉とかいうことばかりを思うのも無理はないけれど、何もそんな思いをして学問をしなくっても人間の尽す道はわれわれの生活の上にも充分あるではないか。
見給え、学問をしてわざわざ工夫になった人さえあるではないか、君! 大いに自重しなくちゃいけないよ、若い者には元気が第一だ」
「はい……」と小さい声で応えたが、私は何とも知れぬ悲しさと嬉しさとが胸一ぱいになって、熱い涙がハラハラ頬を流れる。努めて一口応答をしようと思うけれど、張りさけるような心臓の激動と、とめどなく流れる涙とに私はただ啜り上げるばかりであった。
「小林はあれで立派な学者だ、この間の話では複線工事の監督にここへ来るということだから、君も気をつけて近附きになっておいたら何かと都合がよかろう」
私の胸には暁の光を見るように、新しい勇気と、新しい希望とが湧いた。
藤
白柳秀湖「駅夫日記」その14
夢二の絵は、「鴨川情話」表紙。
小説は、私(藤岡)の身の上話。
その十四
私の傷はもう大かた癒えた、次の月曜日あたりから出勤しようと思うて、午後駅長の宅を訪ねて見た。細君が独りで板塀の外で張り物をしていたが、私が会釈するのを見て、
「今日は留守ですよ、非番でしたけれども本社の方から用があるというて来ましたので朝出かけたままですよ」
「どんな御用でしょう、この間の事件ではないでしょうか」
「サア、宅の人もそう言うていましたがね、ちっとも心配することはないと言うて出て行きましたよ」とさりげなく言うたけれども、私は細君の眉のあたり何となく晴れやらぬ憂いの雲を見た。
私はこのいい細君が襷をあやどって甲斐甲斐しく立ち働きながらも、夫の首尾を気づこうて、憂いを胸にかくしている姿を見て、しみじみと奉職の身の悲しさを覚えて、私のし過しから足立駅長のような善人が、不慮の災難を被ることかと思うと、身も世もあられぬような想いがした。
「心配なことはないでしょうか」
「大丈夫でしょう」と言うたが、顔を上げて、
「もう快いのですか」
「ええ明後日あたりから出勤することにしたいと思いまして……」
* * *
その夜の月はいと明るかった。
駅長は夕方帰って来たが、きょうは好きな謡曲もやらないで、私の訪ねるのを待っていろいろその日の首尾を話してくれた。
要するに、私の心配したほどでもなかったが、駅長は言うべからざる不快を含んで帰って来たらしい。
この間の工学士というのは品川に住んでいた東京市街鉄道会社の技師を勤めている蘆鉦次郎という男で、三十二年の卒業生であるそうだ、宮内省に勤めた父親の関係から、社長の曽我とも知己の間でこの間の失敗を根に持ってよほど卑怯な申立てをしたものと見えて、始めは大分事が大げさであったのを、幸いに足立駅長が非常に人望家であったために、営業所長が力を尽して調停してくれてやっと無事に済んだということであった。
そういう首尾では駅長が不快に思うのも無理はない、私は非常に気の毒に思うて、私が悪いのだから、私が職を罷めたならば、上役の首尾も直るでしょうと言えば、駅長はすぐ打ち消して、かえって私を慰めた上に、いろいろ行末のことも親切に話してくれた。
私は駅長の問うにまかせて、私の身の上話をした。月影のさす秋の夜に心ある夫婦の前で寂しい来しかたの物語をするのは私にとって、こよなき歓楽であった。
私の父は静岡の者で、母はもと彦根の町のさる町家の娘で、まだ禿の時分から井伊の城中に仕えてかの桜田事件の時にはやっと十八歳の春であったということ、それから時世が変って、廃藩置県の行われたころには井伊の老臣の池田某なるものに従うて、遠州浜松へ来た。
池田某が浜松の県令に撰抜されたからで、母は桜田の騒動以来、この池田某に養われていたのであった。
母はここで縁があって父と結婚して、長い御殿奉公を止めて父と静岡にかなりの店を開いて、幸福に暮していた。母の幸福な生活というのは実にこの十年ばか りの夢に過ぎなかったので、私は想うて母の身の上に及ぶと、世に婦人の薄命というけれど、私の母ばかり不幸な人は多くあるまいと思わぬ時はないのである。
父が死んでから、私たち母子は叔父の家に寄寓して言うに言われぬ苦労をしたが、私は小学校を出て叔父の仕事の手伝いをしている間も深く自分の無学を羞じて、他人ならば学校盛りの年ごろを、いたずらに羞かしい労働に埋れて行くことを悲しんだ。私がだんだん年ごろとなるに連れて叔父との調和がむずかしく若い心の物狂わしきまでひたすらに、苦学――成功というような夢に憧れて、母の膝に嘆き伏した時は、苦労性の気の弱い母もついに私の願望を容れて、下谷の清水町にわびしく住んでいる遠縁の伯母をたよりに上京することを許してくれた。
去年の春下谷の伯母を訪ねて、その寡婦暮しの聞きしにまさる貧しさに驚かされた私は、三崎町の「苦学社」の募集広告を見て、天使の救いにおうたように、雀躍して喜んだ。私は功名の夢を夢みて「苦学社」に入った。
母の涙の紀念として肌身離さず持っていたわずかの金を惜しげもなく抛げ出して入社した三崎町の苦学社を逃げ出して再び下谷の伯母の家に駆け込んだ時は、自分ながら生命のあったのを怪しんだほどである。私は初めて人間の生血を吸る、恐ろしい野獣の所為をまのあたり見た。
坂本町に住む伯母の知己の世話で私が目黒の駅に務めることになったのは、去年の夏の暮であった。私はもう食を得ることよりほかにさしあたりの目的はない。功名も、富貴も、それは皆若い私の夢であった、私はもう塵のような、煙のような未来の空想を捨てて、辛い、苦しい生存の途をたどらなければならないのだ。私の前には餓死と労働の二つの途があって私はただ常暗の国に行くために、その途の一つをたどらなければならないのだ。
駅長も細君も少からぬ同情をもって私の話を聞いてくれた。やや寒い秋の夜風が身にしみて坪の内には虫の声が雨のようである。